元禄の幕府と鳥取藩の往復文書 画像
元禄6年(1693年)5月22日 竹島の書付
元禄6年(1693年)5月22日 御用人日記
元禄8年(1695年)12月24日 幕府から鳥取藩に 磯竹島事略
1 因州伯州へ付けている竹島は、いつから両国に附属する事になったのか、先祖が両国を領地とする以前のことか、その後のことなのか。
2 竹島は、大方どの位の島か。人は住んでいないのか。
3 竹島に漁業に行くようになったのはいつ頃か。毎年行っているのか。時々なのか。どのように猟をしているのか。多くの船で行っているのか。
4 三四年前に朝鮮人が来て漁をしていた時、人質として両人を捕らえてきた。それ以前から来ていたのか。その両年だけ来たのか。
5 ここ一二年は来ていなかったのか。
6 先年来ていた時の船数、人数はどうであったか。
7 竹島の外に因伯両国に附属する島はあるか。また両国の者が漁採に行っていたのか。
元禄8年(1695年)12月25日 鳥取藩の回答 磯竹島事略
亥十二月廿四日、竹島の御尋書の御返答書、同廿五日に平馬持参曾我六兵衛に渡す
1 竹島は、因幡伯耆の附属ではない。伯耆国米子町人の大屋九右衛門、村川市兵衛と申す者が渡海していたのは、松平新太郎が受領の節、御奉書を以って仰せ付けられた。それ以前にも渡海していと聞くが、そのことは知らない。
2 竹島は、周囲が凡そ八・九里。人は住んでいない。
3 竹島渡海は、2月3月の頃、米子から毎年出かけている。彼の地では、鮑みちの漁をしており、船数は大小2艘で行っていた。
4 四年以前の申年に朝鮮人が島に来ていた時、船頭たちが出会ったことについては、その時にお届けした。翌酉年も朝鮮人が来ており、船頭たちがそのうちの二人を連れて米子に帰ってきた。そのこともお届申し上げ長崎へ送った。
5 戌年は風のために島に着岸できなかったことをお届した。当年も渡海したところ、異国人が多数見られましたので着岸せず、帰途松島で鮑を少々取ったと申している。右のこともお届申し上げた。
6 申年に朝鮮人が来た時は、十一艘のうち六艘が強風にあい、残り五艘が島に来て、人数五十三人がいた。酉年には船三艘、人数四十二人が来ていたと申していた。当年は船数余多で人も見えたが、着岸していないのでその詳細はわからない。
7 竹島松島の他に両国の附属の島はない。
元禄8年(1695年)12月25日 鳥取藩の追加回答 磯竹島事略
1 竹島の外にある松島と申す島、因幡伯耆へ付属の島に候や
松島は両国に付属する島ではない。竹島への道筋にある島。
2 竹島へは伯耆よりどの位か 船道160里程
3 竹島より朝鮮へはどの位か 船道凡そ40里余り
元禄6年(1693年) 竹島の書付 御用人日記
磯竹島事略
竹島の書付
御用人日記
- 最終更新:2009-02-26 06:41:09