6 外務省の竹島・松島認識

 竹島と松島を日本領外とする認識は外務省も同様である。1869(明治2)年、外務省は朝鮮との新しい外交関係樹立を模索するために朝鮮の内情を調査すべく、太政官の裁可を得て、同省高官の佐田白茅、森山茂、斉藤栄らを朝鮮に派遣した。佐田らはその翌年、報告書『朝鮮国交際始末内探書』を提出したが、そのなかで「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」と題する一項をもうけ、こう記した。

竹島松島朝鮮付属に相成候始末

此儀は松島は竹島の隣島にて松島の儀に付是迄掲載せし書留も無之竹島の儀に付ては元禄度後は暫くの間朝鮮より居留の為差遣し置候処当時は以前の如く無人と相成竹木又は竹より太き葭を産し人參等自然に生し其余漁産も相応に有之趣相聞へ候事・・・・

  この報告書からわかるように、外務省も竹島・松島は元禄期以降に朝鮮領となったと認識していたのである。この認識は、外務省から朝鮮内探の報告を受けた太政官も同様であったと思われる。日本では元禄期以降の天保期にも今津屋八右衛門事件をきっかけに竹島への渡海や遠き沖乗りが禁止されたので、竹島や松島は朝鮮領と考えられていたのである。

  明治時代になると、日本は官民を挙げて海外へ次第に進出するようになったが、その風潮の中で資源が豊富な竹島(欝陵島)が再び注目されるようになった。欝陵島の豊富な森林資源や海洋資源などを目当てにして、外務省などに「松島開拓の議」、「松島開拓願」などが1876年から78年にかけて相次いで提出された。これらの開拓願いにいう「松島」とは、実は古来の竹島、すなわち欝陵島を指す。そのころになると、外国の誤った地図の影響を受け、欝陵島を次第に松島と呼ぶ民間人が増えはじめたのである。

  松島開拓願を受けた外務省は「松島」なる島の所在をめぐって大いに混乱した。松島と竹島との位置関係や、はなはだしくは隠岐の沖合にある島は2島なのか、3島なのかすら外務省は把握しきれない状況であった。

  外務省内は諸説紛々であったが、次第に開拓願いにいう松島は古来の竹島であると理解されるようになった。記録局長の渡辺洪基は「その松島デラセ嶋なるものは本来の竹嶋即ち蔚陵島にして、我が松嶋なるものは洋名ホル子ットロックスなるか如し」と述べ、開拓願いの松島は古来の竹島(蔚陵島、欝陵島)であり、古来の松島はホルネットロックス(竹島=独島)であろうと推測していた。また、公信局長の田辺太一は、開拓願いの松島は古来の竹島、すなわち「朝鮮の蔚陵島」であると断定し、開拓願いに却下の意見を付した。さらに古来の松島については「聞く、松島は我が邦人の命名した名前であり、その実は朝鮮の蔚陵島に属する于山なり」と述べ、古来の松島は蔚陵島付属の于山島であると理解していた。このように、外務省では古来の松島と開拓願いの松島をおおむね正しく見分けていたが、誰も確信を持てない状況であった。

  一方、欝陵島近辺の測量は1878年6月になって海軍水路局により行なわれた。その報告書において古来の竹島は、イギリス海軍の海図にならって名前が「松島」とされて『水路雑誌』に公表された[11]。さらに、1880年に「水路報告第33号」にても「松島韓人之を鬱陵島と称す」と報告された[12]。この水路局の断定は決定的な影響を与えた。外務省の北沢正誠は「今日の松島は即ち元禄12年称する所の竹島にして古来我版図外の地たるや知るへし」として調査報告書『竹島考證』に記したのであった。その一方、北沢は当時同じく問題になっていた竹島については水路局の「竹嶼朝鮮人之を竹島と云ふ[13]」という認識をもとにしたのか、竹島を欝陵島東方の竹嶼に比定し、「竹島なる者は一個の岩石たるに過ぎざる」と『竹島考證』に記した。なお、北沢は欝陵島に関してはその歴史を江戸時代にさかのぼって詳細に調査したものの、竹島=独島については知識がなかったのか、ほとんど記述しなかった。


[11]『水路雑誌』第16号、海軍水路局、1883年7月、p.42
[12]北澤正誠『竹島考證』下、1881年
[13]『水路雑誌』第41号、海軍水路局、1883年7月、p.35

レジメ

1)「朝鮮国 交際始末内探書」
 1869(明治2)年、外務省は太政官(内閣相当)の裁可を得て、釜山の倭館へ外務省高
 官を派遣して朝鮮の内情を探り、外交樹立を模索する。翌年、報告書「朝鮮国 交際始
 末内探書」の中に「竹島松島 朝鮮付属に相成候始末」(別刷 p43)

  • 最終更新:2009-02-27 22:13:59

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