7 海軍省の竹島・松島認識

  明治時代初期の島名混乱に完全に終止符を打ったのが、水路局後身の水路部である。1894年、水路部は『朝鮮水路誌』を発行し、その中で欝陵島を「一名松島」と記載した。これは海図や『水路雑誌』に比べてはるかに影響力が大きく、これ以後は古来の竹島、つまり欝陵島は日本で正式に松島と呼ばれるようになった。そのため、古来の松島、すなわち竹島=独島は日本でその固有名称を失い、代わりに西洋名のホルネットやリアンクール、略してリャンコ、ヤンコなどとよばれるようになった。前述の『朝鮮水路誌』にも竹島=独島はリアンコールト列岩として次のように記載された。

リアンコールト列岩

此列岩は洋紀一八四九年仏国船「リアンコールト」号初て之を発見し船名を取てリアンコールト列岩と名つく其後一八五四年露國「フガレット」形艦「パラス」号は此列岩をメナライ及ヲリヴツァ列岩と称し一八五五年英艦「ホル子ット」號は此列岩を探検してホル子ット列島と名つけり該艦長フォルシィスの言に拠れば此列岩は北緯三七度一四分東経一三一度五五分の処に位する二坐の不毛岩嶼にして鳥糞常に嶼上に堆積し嶼色為めに白し而して北西微西至南東微東の長さ凡一里二嶼の間距離一/四里にして見たる所一礁脈ありて之を連結す

  リアンコールト列岩は『朝鮮水路誌』のみに記載され、同じ時期の『日本水路誌』に記載されなかったのは特筆に値する。元来『日本水路誌』の扱う範囲は日本の領土・領海に限定されていたのである[14]。したがって、リアンコールト列岩が日本領との認識であれば、日本の西北海域を扱った『日本水路誌』第4巻(1897)に当然記載されるべきである。しかし、そこには欝陵島や竹島=独島に該当する島の記述はないし、関係する日本海図にも両島は記載されなかった。これは日本の島嶼などを確認し、ひいては日本の国境を画定する役割をもった水路部がリアンコールト、すなわち竹島=独島を日本領外とみなしたことを意味する。

  以上のように、太政官や内務省、陸軍、海軍、外務省、文部省など、竹島・松島に関係の深いすべての政府機関は欝陵島と竹島=独島を朝鮮領と考えていたといっても過言ではない。


[14]堀和生、前掲論文、p.105

レジメ

5)海軍水路部、海図・水路誌の作成
 『日本水路誌』第4巻(1897)、海図に竹島・松島は無。
 「朝鮮東海岸図」(1875)、オリウツア・メ子ライ礁と松島。島名混乱に拍車
 「朝鮮全岸」(1882,海図)、リアンコールド岩と欝陵島(松島)。
 『朝鮮水路誌』(1894)にリアンコールト列岩と欝陵島(一名松島)。

  • 最終更新:2009-02-27 22:18:59

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