『磯竹島覚書』と于山島 take_8591

  半月城さんは、『磯竹島覚書』は、後に内務省が竹島・松島を版図外と判断する際の基本資料になった重要な史料である。と言われます。そこで、『磯竹島覚書』に書かれている于山島を検討します。

  元禄8年(1695年)12月7日、対馬藩は、朝鮮が竹島領有根拠としている「余地勝覧」と対馬藩が竹島領有根拠としている「芝峯類説」を老中に示しました。
  先ず、対馬藩は言います。(交渉開始から3年になるが遅々として進まない)「彼の国は北京の幕下であるから、この事は北京にも聞こえます。」と。そして、余地勝覧を示し「半島から鬱陵島が歴々と見え、古来においては朝鮮領であること疑いなし」と言い、「于山島とあるが、これは鬱陵島の別称である」と付け加えます。更に、芝峯類説を示し「秀吉の朝鮮征伐の時期から竹島は日本領になった」と言います。

  「北京に聞こえるかも知れない」が、日本が譲歩した一因だと思います。
  元禄期の日本は、「于山・鬱陵は本一島」を本説と信じ、明治政府もこれを引継いだと考えられます。太政官は、鬱陵島=竹島を版図外とし、もしかしたら存在するかも知れない于山島を「外一島」としたのかも知れません。尚、元禄竹島一件外交文書で、「松島」とか「于山」とかいう文言は、全く使われていません。又、元禄期の老中は、鳥取藩回答に「松島」の文言が表れたので、松島=于山島の可能性を考え再確認したのかも知れません。しかし、八道総図と異なり松島が日本よりにあることが確認できたので、深く追求しなかったのかも知れません。

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磯竹島事略より

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  ゲーリー氏は、明治期の于山島認識を示す地図として、次の4点をし示しています。
朝鮮国細見全図(染崎延房編著 1873) 鬱陵島附近拡大図
朝鮮全図(海軍水路寮 1873) 鬱陵島附近拡大図図
原版朝鮮全国之写(陸軍編纂 1877) 鬱陵島附近拡大図
明治二十七年 朝鮮全図(柴田源三郎編1877) 鬱陵島附近拡大図 

  • 最終更新:2009-02-26 06:42:51

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