『高宗実録』と鬱陵島検察(校正)

『高宗実録』と鬱陵島検察(校正)

 『高宗実録』と鬱陵島検察1(校正) 2003/ 3/21 20:57 [ No.1547 / 17381 ]

投稿者 :hangetsujoh

  半月城です。
 「竹島一件」以後の江戸時代、「于山すなわち倭がいうところの松島(竹島=独島)」をめぐって日朝両国では何事もなく平穏な時代がつづきました。
  ところが明治維新をきっかけに日本帝国では対外膨張の気運が高まり、日本政府の政策とは別に、日本人の鬱陵島への渡航が盛んになりました。これは必然的に鬱陵島にしかれていた朝鮮政府の空島政策を激変させることになりました。今回はこれを取りあげることにします。
  1881年、朝鮮の鬱陵島捜討官は同島で日本人が伐木しているのを発見しました。朝鮮政府としても放ってはおけず、関係機関が対策にのりだしました。統理機務衙門は次のような提案をしたことが『高宗実録』18年5月条に記されました。

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  ところで彼ら日本人が鬱陵島で人知れず木を切り運び出すのは辺禁政策にかかわることであり、厳重に防がなければならない。将来、この事実を書契にしたため、東莱(釜山)の倭館に送り、日本外務省に転送するようにする。
  考えるに、この島は茫々たる海のなかにあるが、そのまま空島にしておくのはさみしいかぎりである。その形勢が要害であるかどうか、また防御が緊密であるかどうかなどをことごとく審査して処理すべきである。副護軍の李奎遠を鬱陵島検察使に任命して早々に行かせ、徹底的に検討し意見をまとめ稟議するのはいかがであろうか。
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  この提案は承認され、検察使の李奎遠は王に召されましたことが『高宗実録』や『承政院日記』に記されました。承政院とは王命や王への提言を取り扱う官庁ですが、その公的な記録が『承政院日記』であり、現在 1623‐1894年分の3047冊という膨大な史料が残されました。朝鮮は『実録』といい『承政院日記』といい、記録を重視した国でした。
  さて、李奎遠は鬱陵島へ出発する前に王と面談しましたが、そのときのようすが『高宗実録』と『承政院日記』に記されました。後者はその対話を高宗19年(1882)4月7日条にこう記録しました。

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 王曰く「近ごろ、鬱陵島に他国人がたえず往来して、かれらが占拠するままになっている弊害がある。また松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが、相互の遠近や距離がどうであるか、またどんな物があるのかよくわからない・・・」

 李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」

 王曰く「あるいは芋山島と称し、あるいは松竹島と称しているが、みな『輿地勝覧』の所産である。また松竹島と称するが、芋山島とあわせ3島をなしており、それらの通称名が鬱陵島である。そのありさまをよく検察せよ・・・」

 李奎遠曰く「謹んで深く入って検察します。あるいは松島竹島と称する島が鬱陵島の東にありますが、これは松竹島のほかに松島竹島があるということではありません」
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(つづく)

『高宗実録』と鬱陵島検察2(校正) 2003/ 3/21 20:59 [ No.1548 / 17381 ]
投稿者 :hangetsujoh


  王と李奎遠の芋山島認識にはすこし差があることが読みとれます。それを整理すると下記のようになります。
 王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島
 李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島

  単に鬱陵島というと、鬱陵島本島をさす場合と于山島など付属の島を含めていう場合のふたとおりあったことがわかります。つまり、于山島と松竹島は鬱陵島の付属扱いにされる場合がありました。一方、松竹島の名が登場したのはこのときが官撰史料では初めてではないかと思われ注目されます。
  1882年4月、李奎遠は東海の島についてあやふやな知識のまま鬱陵島検察に旅立ちました。帰京後、復命書『啓本書』を政府へ提出しましたが、そこに于山はこう記されました。
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  松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである(注1)。
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  于山島=鬱陵島と信じこんで鬱陵島に来た李奎遠は、松竹島、于山島は鬱陵島近傍の小島であるという住民の話を聞いて、鬱陵島、松竹島以外に于山島が存在することを住民の伝聞という形で確認しました。王の3島認識は島に住む住民の証言で裏づけられたことになります。
  なお、文中に「耽羅」が登場しますが、済州島の別名である耽羅は高麗に吸収された耽羅国をさします。ここで注意すべきは、耽羅は国名であり島名ではありません。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ており、于山は鬱陵島の別名になりました。それらを整理すると、この時代の認識は下記のようになります。

 耽羅国=済州島+近傍の小島
 于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

  結局、李奎遠の復命書で于山島の名は確認されたものの踏査は行われず、その位置はあいまいなままでした。しかし、すくなくともこの島は松竹島と区別されていたことだけは確かです。とかく朝鮮の古地図で于山島は鬱陵島のすぐ東に描かれることが多かったため、于山島を現在の竹嶼島と混同しているのではないかと思われがちですが、少なくとも19世紀末ころはそうでなかったことがはっきりしました。一方、松竹島は後に韓国官報(1900)に掲載された竹島とみられます。
  なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。
  その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。
(つづく)


『高宗実録』と鬱陵島検察3(校正) 2003/ 3/21 21:00 [ No.1549 / 17381 ]
投稿者 :hangetsujoh

  実際は、李奎遠は松竹島や于山島が見えないような状況で周囲を見渡したに過ぎません。当然、目視しなかったことと認識していないこととは別です。史実は、李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。

  他方、李奎遠の本来の任務である鬱陵島本島の踏査は詳細になされました。その過程で李は島においてマジョリティである全羅道出身者と多数会ったり、日本人に遭遇したりしました。
  日本人とは筆談で会話しましたが、そこで日本人が鬱陵島に「松島」の標木を立てたことを知り、李は実際にそれを確認しました。長さ1.8mの標木には「大日本国松島槻谷 明治二年二月一三日 岩崎忠照建之」と書かれていました。
  鬱陵島が日本で松島と呼ばれるようになったいきさつは次回書くことにしますが、こうした日本のあからさまな侵入は朝鮮政府に数百年来の空島政策を転換させることになりました。それを堀氏はこう記しました(注2)。
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  その(李奎遠の)報告に基づいて同年12月「鬱陵島開拓令」が出された。そして、同年まず島長が置かれ、移民入植政策が始められた。つまりここから、鬱陵島は単なる地図上の版図たるのみならず、朝鮮社会に実質的に組み込まれていくことになった。
  83年、金玉均が「東南諸島開拓使兼捕鯨事」に任命され、意欲的な同島開発策がたてられたが、これは彼の失脚によって実を結ばなかった。
  その後、同島の行政機構は何度か改編され95年に島長は島監と変わったが、その間の政府の賦税免除と移住奨励によって朝鮮人の人口は着々と増加した。そして1900年10月ついに鬱陵島は郡に昇格し、中央派遣の郡守が任命されたのである。
  このように、鬱陵島は80年代以降全く未開の状態から、次第にまとまった朝鮮人社会を形成しつつあった。しかし、行政機構が本土より格段に未整備であったため、日本の侵略をより早期にこうむることになったのである。
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  その後、鬱陵島が日本によっていかに侵略されていったかについてはおいおいと記すことにしますが、この段階で重要なのは李奎遠の鬱陵島検察の結果、鬱陵島のほかに于山島、松竹島が存在するという3島認識が明確になったことです。これが朝鮮の後の行政に受けつがれましたが、その詳細はあらためて記すことにします。

(注1)『啓本書』
是白乎〓 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島當之 然既無圖籍之可據 又無鄕導之指的 清明之日 登高遠眺 則千里可窺 以更無一拳石一撮土 則于山指稱鬱陵 即如耽羅指稱濟州
(注2)堀和生「1905年日本の竹島編入」『朝鮮史研究会論文集』24号,1987,P97

  (半月城通信)http://www.han.org/a/half-moon/



 寄せられた反論

 何度か校正されている様なので、以下の反論は食い違うところがあるかも知れません。




 凄いなあ. 2003/ 3/17 7:57 [ No.1527 / 17381 ]

投稿者 :yusura_sdhk

半月城さんも芸風炸裂ですなあ.特にこれが凄い↓

>松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。しかるに根拠となる地図もなく、また案内の指標もない。晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである

>(注)
>文中に「耽羅」が登場しましたが、これは高麗に吸収された耽羅国をさします。のちに耽羅国は済州島の別名になりました。そうした事情は、新羅に吸収された于山国に似ていますが、

ここまではOK.凄いのはここから.

>整理すると両国は下記のようになります。
>
> 耽羅国=済州島+近傍の小島
> 于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

于山島なんか無い,と耳元で言われても聞こえないんだろうなあ.
凄いなあ.
見事だなあ.

師匠と仲良くしてくれ.


これは メッセージ 1524 hangetsujoh さんに対する返信です


 普通に整理すると 2003/ 3/17 8:03 [ No.1528 / 17381 ]

投稿者 :yusura_sdhk


っていうか,整理する必要も無いんだけど.

>鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである

鬱陵=于山
済州=耽羅

それとも,半月城氏の言う「整理」って,別の意味なのかしらん.


これは メッセージ 1527 yusura_sdhk さんに対する返信です


 よく読むと狡猾です. 2003/ 3/17 11:56 [ No.1529 / 17381 ]

投稿者 :yusura_sdhk


これは一種の才能ですね.味わってみましょう.

>なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、もちろんこれは誤りで、目視しなかったことと認識していないこととは別です。李奎遠は検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認しました。

上記の文章は全く正しいです.于山島の存在を認識していたからこそ,
高台から捜したのです.何故于山島の存在を認識したのかというと,
検察の過程で于山島の存在を名前だけでも確認したからです.

ただし,高台から捜した結果,島影が見付からなかったので,
于山島とは鬱陵島のことを指すのだ,と結論付けたわけです.

つまり,なんとなく疑問に感じている読者に対して,実は論点と
関係無い別の事実(事実であることが重要)を指摘して煙に巻いて
いるわけですね.

見事です.


これは メッセージ 1524 hangetsujoh さんに対する返信です


 >下条うんぬんといった 2003/ 3/24 7:44 [ No.1557 / 17381 ]

投稿者 :yusura_sdhk


そこ,読み飛ばしていました.これですね↓

>なお、李奎遠が高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかったことから、李奎遠は于山島の存在を認識していなかったと短絡的にとらえる人がいますが、それは下條式の飛躍というものです。

まず,誰が「李奎遠は于山島の存在を認識していなかった」と
短絡的に捉えているのでしょうか.少なくとも僕はこの記述は
正しいと表明していますが.

更に,論理的におかしいのは下記ですね.

>その論法を推し進めると、単に見えなかったという理由で、李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。

上記の反論は背理法に依っていると思われますが,背理法が成り
立つためには,導き出される結論が明らかに「偽」である必要が
ある,と高校で習いました.

「李奎遠は出発前に認識していた松竹島の存在をも否定してしまった」
という命題は,明らかな「偽」なんでしょうかね.

背理法の結論に議論の対象を持ってきてどうする.

校正やり直し.


これは メッセージ 1556 henchin_pokoider01 さんに対する返信です


 もっと変だな. 2003/ 3/24 7:56 [ No.1558 / 17381 ]

投稿者 :yusura_sdhk


考えてみれば,更に変だ.

>出発前に認識していた松竹島の存在

って,下記のことだけど,

>李奎遠曰く「謹んで力一杯奉公します。芋山島はすなわち鬱陵島で、芋山は昔の国都の名です。松竹島は一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」

という認識が,

>高いところから周囲を見渡して「ひとかけらの石」も見なかった

ことと,そもそも矛盾するのか?距離は30数里(1.2km)の小島なら,
ちゃんと有るだろう.


これは メッセージ 1557 yusura_sdhk さんに対する返信です


 >『高宗実録』と鬱陵島検察2(校正) 2003/ 3/23 21:06 [ No.1554 / 17381 ]

投稿者 :yusura_sdhk


別に校正しなくてもいいんですけど.どうせ無駄だし.
どっちを半月城通信に掲載してもいいんですけど.
どうせ半月城通信だし.

でも反論はしておきます.あなたの投稿は放っておくと有害なので.

>すなわち鬱陵を于山と称するのは、済州を耽羅と称するごとくである

というからには,鬱陵-于山のケースと済州-耽羅のケースとでアナロジーが
成り立つ必要があります.判りやすく言うと,鬱陵-于山について述べた真の
命題の,鬱陵に済州を,于山に耽羅を代入しても真である,ということです.

代入してみましょう.

于山国=鬱陵島+松竹島+于山島

代入 → 耽羅国=済州島+??島+耽羅島

????

耽羅国って,済州島と耽羅島(ともう一島)から構成されていたんですか?

正しいアナロジーは以下です.

耽羅国=済州島+近傍の小島
于山国=鬱陵島+近傍の小島


どちらの説の方が説得力が有るのかは,ROMの皆様に判断して頂きましょう.


これは メッセージ 1548 hangetsujoh さんに対する返信です


 理解不能 2003/ 3/24 15:37 [ No.1559 / 17381 ]

投稿者 :henchin_pokoider01

      --------------------
松竹于山などの島を現地に住む人たちは、みな近傍の小島をこれに当てている。
      --------------------
 ここで住民の話を整理してみよう。于山が島を指していることも明らかです。どう見ても、転んでも↓ですね。

<「中立」の視点>
鬱陵島近傍の小島の呼び名=竹(島)、松(島)、于山(島)

 しかし、半ケツさんにはこの住民の話が「鬱陵島、松竹島以外に于山島がある」と聞こえるらしい。(笑)
 この小島が、観音島を指すのか、松竹島と推定した小島(chukdoでしょう)を指すのかは不明です。しかし、松竹島及びこの小島が、鬱陵島の「近傍」であることには変わりがありません。

 そして李は律儀にも、王の三島説に起因する「近傍の小島以外の島」を確認するため、高台に登った。その結果が「ひとかけらの石も一握りの土もなかった。」です。そんな島は存在しなかった。済州の例えも入れて、「近傍の島以外の島」の存在をはっきりと否定しているのですね。

 何の具体的な記述をあげることなく、于山島の存在を認識していたと盲目的にとらえる人がいますが、それは半ケツ式の飛躍というものです。
 その論法を推し進めると、登ってまで確認し、「鬱陵島近傍の小島以外の島」の存在を否定し、出発前に認識していた松竹島を「一小島で鬱陵島との距離は30数里(1.2km)です。その産物は檀香と簡竹であるといいます」とした李の報告をも否定してしまったという結論になってしまいかねませんが、史料にそのような記述はもちろんありません。

 もう一度書きます。史料には、李及び住民が鬱陵島「近傍」の小島又は鬱陵島本体以外に「芋山島」を推定した記述は一切ありません。
 この報告を受けた王が再度疑問や再調査を呈した史料がない限り、于山国(島)には「鬱陵島近傍以外に島はない」との李の報告に王も同意したと考えて差し支えないでしょう。

これは メッセージ 1548 hangetsujoh さんに対する返信です

  • 最終更新:2009-02-28 13:51:03

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