古色蒼然一 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して

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浦項에서 水路一百二十四海里 東쪽바다속에 世上에서 저바림을 받은 것 같은 鬱陵島가 史上에 낱아나기는 新羅 智證王十三年 [A.D. 512]이며, 至今으로부터 一千四百三十餘年 前이다. 그後 高麗 太祖十三年때에 土民 白吉 土豆 等이 方物을 밧쳤으므로 正位와 正朝벼슬을 주었다. 또 毅宗十一年 [A.D.1159]에 溟州監倉 金柔立을 보내여 본 結果 村落基地 七個所와 石佛 鐵鍾 石塔 等은 있으나 住民이 살기에는 不便하다고 報告하였다. 그後 李朝 

太宗十七年 [A.D.1417]에는 按撫使 金麟雨가 鬱陵島에서   大竹水牛皮綿子 檢樸木 等을 獻上하였다고 한다.


 浦項で 水路一百二十四海里 東チォックバダソックに 世上で低ぼかしを受けた のような 鬱陵島が 史上にナッアナギは 新羅 智証王十三年 [A.D.512]であり,至今から 一千四百三十余年 前だ. その後 高麗 太祖十三年の時に 土民 白吉 土豆 等が 方物を バッチョッウムで 正位と 正朝官職を与えた.また 毅宗十一年 [A.D.1159]に 溟州監倉 金柔立を送るよ見た 結果 村落基地 七個所と 石仏 鉄鍾 石塔 等はあるが 住民が暮すには 不便すると 報告した. その後 李朝 

太宗十七年 [A.D.1417]には 按撫使 金麟雨が 鬱陵島で 大竹水牛皮綿子 検樸木 等を 献上したと言う.



1417-02-05 太宗 33卷, 17年 (1417 丁酉 / (永樂) 15年) 2月 5日(壬戌)


○按撫使金麟雨還自于山島,
  獻土産大竹、水牛皮、生苧、綿子、檢樸木等物,
  且率居人三名以來。
  其島戸凡十五口, 男女?八十六。
  麟雨之往還也, 再逢颶風, 僅得其生。

按撫使 金麟雨が于山島から還った
  土産を献じた。大竹・水牛皮・生苧・綿子・検樸木など。
  また、居住民を3人を連れてきた。
  その島の戸は、凡そ15口。男女86人だ。
  金麟雨は往復の時台風に会った。僅かにその生を得た。




鬱陵島·独島学術調査の時 学術調査団大将で鬱陵島と独島を直接探査なさった宋錫夏(宋錫夏)先生の次の文を通じても 石島がすなわちドックソムに発音されたし,ドックソムが現在の独島なのを把握すること ある.



  浦項で 水路一百二十四海里 東チォックバダソックに 世上で低ぼかしを受けた のような 鬱陵島が 史上にナッアナギは 新羅 智証王十三年 [A.D.512]であり,至今から 一千四百三十余年 前だ. その後 高麗 太祖十三年の時に 土民 白吉 土豆 等が 方物を バッチョッウムで 正位と 正朝官職を与えた.また 毅宗十一年 [A.D.1159]に 溟州監倉 金柔立を送るよ見た 結果 村落基地 七個所と 石仏 鉄鍾 石塔 等はあるが 住民が暮すには 不便すると 報告した. その後 李朝 太宗十七年 [A.D.1417]には 按撫使 金麟雨が 鬱陵島で 大竹水牛皮綿子 検樸木 等を 献上したと言う. 
これら 歴史的記録は 同島 北西便 遺跡地域で 出土する 遺物で 能ヒ 説明できる.  しかし 世宗地理誌や 常識的に知られた大きくなるんだって(大竹) クンボックスングよ(大桃) みたいなことは 只今は 影子さえなくてただ 香木が 昔のザツェを言うように 絶壁右にやっと残っているだけだ. 鬱陵島の 人煙は 数次の 無人島時代をギョックグン後 只今から 六十四年 前に 開拓民の 移住から 始作下は 現在に至ったが 現存一 当時の 移民はやっと限り人が 沙洞というところ残っている だけだ.

イネドルの 移住当時の 産物でも 木材はその後 濫伐で 因しなければならない爆利刀なくて 全島エイッヌン 寄鳥 グァックセと海の 特産 全鰒は 只今は 滅種にガッがウォ この番 調査にも 発見できなかった.

鬱陵島で また 東便で 四十八海里に行けば群れの 脚光を受けたドックソム(独島)が ある.東西 ドックソムになるよ 西チォックソムがちょっと大きくなって 高度百五十七米突であり 西島は 噴火口があるが 只今は支えてその 下部には海物が ドルナックナルナックする.両島の間には 陷沒一 残骸が残っていて この 残骸を今度 調査隊では 獅子島だと 命名した.

歴史的では 李朝 成宗三年で 十二年(1472-1481)まで 十年間 この島の 問題が 沸騰下は 朴宗元を 敬差官ウロして我が国の 逃潜者を 捜そうと韓日があり 富寧人金漢京等歯軋りして 逃潜民に 劫ウルデで※ 上陸できなくて 図形だけ グリョワッダする.所謂三峯島捜覧問題だ.現在 島民の 唯一限り 生命線的 産業は 烏賊魚 漁業だ.七·八·九月の 3ヶ月の間は 島民の巨津 全部の 男子は 夕陽マンドエなら 発動機船で 海に出てウェンバムドングアン 捕獲真書アツムイルズックが 帰浦する. この海の 恵沢が 全島民 一万五千の 生命を受け継ぐ.



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(1)万頃蒼波!漁物に 漁民は 生活をかけて

(2)両島末端及獅子島 [中央] 右は 西島

(3)本島頂上で 鳥目瞰したこと

(4)三峰島全景

(5)鬱陵島の 特産品 イカ

(6)イカ 乾燥作業に 熱中する子供たち


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(古色蒼然限り 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して !/宋錫夏/国際補も 3冊1号(新年号) pp.328 /国際報道連盟/国立中央図書館所長,
テキストはこれ 資料を紹介して主神 'ボングが'様の文を引用したし,判読するの できなかった何字を精緻に分析の後記載した.木耳(?) --> 幅が, 時 --> 群れ,劫(?) -->劫)

※ 逃潜民(逃げて隠れた 人)に脅威あって

この文は 1947年 8月 16日から 8月 28日までの第1次鬱陵島·独島 学術調査団派遣がある直後書かれた文で,当時までも独島は 'ドックソム'と 称していたことを示唆していて, 独島の語源を糾明するのに 重要な意味があると言うでしょう. 

大韓帝国勅令第41湖上 石島(ドルソム)はドックソムである 独島おこることがもっと明らかで 負ける.



 ハングル


(古色蒼然한 歷史的遺跡 鬱陵島를 찾어서 !)

울릉도·독도 학술조사시 학술조사단대장으로 울릉도와 독도를 직접 탐사하셨던 송석하(宋錫夏)선생님의 다음 글을 통해서도 石島가 곧 독섬으로 발음되었으며, 독섬이 현재의 독도임을 파악할 수 있다.



 浦項에서 水路一百二十四海里 東쪽바다속에 世上에서 저바림을 받은 것 같은 鬱陵島가 史上에 낱아나기는 新羅 智證王十三年 [A.D. 512]이며, 至今으로부터 一千四百三十餘年 前이다. 그後 高麗 太祖十三年때에 土民 白吉 土豆 等이 方物을 밧쳤으므로 正位와 正朝벼슬을 주었다. 또 毅宗十一年 [A.D.1159]에 溟州監倉 金柔立을 보내여 본 結果 村落基地 七個所와 石佛 鐵鍾 石塔 等은 있으나 住民이 살기에는 不便하다고 報告하였다. 그後 李朝 太宗十七年 [A.D.1417]에는 按撫使 金麟雨가 鬱陵島에서 大竹水牛皮綿子 檢樸木 等을 獻上하였다고 한다. 
이들 歷史的記錄은 同島 北西便 遺跡地域에서 出土하는 遺物로 能히 說明할수있다.  그러나 世宗地理誌나 常識的으로 알려진 큰대(大竹) 큰복숭아(大桃) 같은 것은 只今은 影子조차 없고 다만 香나무가 옛날의 자최를 말하듯 絶壁우에 겨우 남어있을 따름이다. 鬱陵島의 人煙은 數次의 無人島時代를 격근 후 只今으로부터 六十四年 前에 開拓民의 移住로부터 始作하야 現在에 이르렀는데 現存한 當時의 移民은 겨우 한 사람이 沙洞이라는 데 남어있을 따름이다.

이네들의 移住當時의 産物이든 木材는 그後 濫伐로 因하야 한 폭이도 없고 全島에있는 寄鳥 곽새와 바다의 特産 全鰒은 只今은 滅種에 갔가워 이番 調査에도 發見못했다.

鬱陵島에서 다시 東便으로 四十八海里를 가면 떼의 脚光을 받은 독섬(獨島)이 있다. 東西 독섬으로 되여 西쪽섬이 좀 크서 高度百五十七米突이며 西島는 噴火口가있으나 只今은 막혀서 그 下部에는 바다물이 들낙날낙한다. 兩島의 사이에는 陷沒한 殘骸가 남아있어 이 殘骸를 이번 調査隊에서는 獅子섬이라고 命名했다.

歷史的으로는 李朝 成宗三年에서 十二年(1472-1481)까지 十年間 이 섬의 問題가 沸騰하야 朴宗元을 敬差官으로해서 우리나라 逃潛者를 찾으려고 한일이 있으며 富寧人金漢京等이가서 逃潛民에 劫을대여※ 上陸못하고 圖形만 그려왓다한다. 所謂三峯島搜覽問題이다. 現在 島民의 唯一한 生命線的 産業은 烏賊魚 漁業이다. 七·八·九月의 석달 동안은 島民의 거진 全部의 男子는 夕陽만되면 發動機船으로 바다에 나가 왼밤동안 捕獲해서 아츰 일즉이 歸浦한다. 이 바다의 惠澤이 全島民 一萬五千의 生命을 이어준다.



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(1) 萬頃蒼波! 漁物에 漁民은 生活을 걸고

(2) 兩島末端及獅子島 [中央] 右는 西島

(3) 本島頂上에서 鳥目瞰한 것

(4) 三峰島全景

(5) 鬱陵島의 特産品 오징어

(6) 오징어 乾燥作業에 熱中하는 어린이들


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(古色蒼然한 歷史的遺跡 鬱陵島를 찾어서 !/송석하/국제보도 3권1호(신년호) pp.328 /국제보도연맹/국립중앙도서관 소장,
텍스트는 이 자료를 소개해 주신 '벙이'님의 글을 인용했고, 판독하지 못한 몇 글자를 정밀하게 분석후 기재하였음. 목이(?) --> 폭이, 때 --> 떼, 劫(?) -->劫)

※ 逃潛民(도망하여 숨은 사람)에 위협 당하여

이 글은 1947년 8월 16일부터 8월 28일까지의 제1차 울릉도·독도 학술조사단 파견이 있은 직후 쓰여진 글로, 당시까지도 독도는 '독섬'이라 호칭하고 있었음을 시사하고 있어, 독도의 어원을 규명하는데 중요한 의미가 있다 할 것이다. 

대한제국 칙령 제41호상 石島(돌섬)는 독섬인 獨島임이 더욱 분명해 진다.

  • 最終更新:2009-03-03 07:47:22

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