大韓帝国勅令第41号(1900.10.25)の 石島

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1882年 4月朝鮮調整は 鬱陵島に日本人が侵入した事件をきっかけで,鬱陵島検察社李堰怨を 東島に派遣してその間の鬱陵島公道政策を捨てて鬱陵島開拓に 取り掛かるようになる.以後 1883年朝日通商章程が締結された後日本 漁船の朝鮮して漁業が本格化されながら鬱陵島に入って来て不法伐木をする 日本人がもっと押しを利かそうとして, 1899年鬱陵島森林伐採圏を持っていた在韓 ロシア公使館が外交文書で大韓帝国外部に抗議して来たし,鬱陵島図鑑(島監)の日本である不法伐採に大韓 中央政府の対策要請まで出るのに至った.

ここに大韓帝国政府は鬱陵島に調査委員を派遣して 日本側と合同調査して日本人の鬱陵島ミルイブも問題に対する対策を 立てるため,1900年鬱陵島視察委員ウヨングゾング(禹用鼎)を代表で監理で(監理署) 注射金兔囚(金冕秀)と釜山海関税理士ラポデ(E.Laporte,羅保得) 及びボングパン(封弁) 金声援(金声遠),主婦山日本府領事アカスカショスケ(赤塚正助)(輔) 及び警部(警部) 1人と一緒にチァングリョングファン(蒼竜丸)に 乗って 5月 31日鬱陵島に到着,6月 1日から 5日間イギリスである税理士 ラポテの立ち会いの下日本副領事アカスカショスケなどと相次いで会同しながら 鬱陵島の実態を調査した

鬱陵島視察 以後, 大韓帝国は 1900年 10月 25日 大韓帝国勅令第41号で '鬱陵島を鬱陶(鬱島)で改称して図鑑を軍需で改正した 件'の官制改訂を断行して 石島(独島)を鬱陶軍需のグァンザングハに置いて これを世界に露した. 


勅令祭祀十日号
(勅令第四十一号)
( イメージクリック- 拡大 )
鬱陵島(鬱陵島)を鬱陶(鬱島)で 改称(改称)と図鑑(島監)を 軍需(郡守)で改訂(改正) 件(件).

第一組(第一條) 鬱陵島(鬱陵島)を 鬱陶(鬱島)だと改称(改称)なの 江原道(江原道)に部属(附属)と 図鑑(島監)を軍需(郡守)で改訂(改正)なの 官制中(官制中)に編入(編入)と 軍等(郡等)は五等(五等)で 死(事).

J組(第二條). 郡庁(郡庁) 位置(位置)  台霞洞(台霞洞)で情(定)と 区域(区域)は 鬱陵前も(鬱陵全島) わ 竹刀(竹島) 石刀(石島) を 管轄(管轄)する死(事).

第三組(第三條). 開国五百巳年(開国五百四年) パルワルシブユックである(八月十六日) 官報中(官報中) 官庁事項欄内(官庁事項欄内) 鬱陵島以下(鬱陵島以下) 十九者(十九字)をチェックゴ(冊去)で 開国五百午年(開国五百五年) チックリョングサムシブユックホ(勅令三十六号) ゼオゾ(第五條) 江原道二十陸軍(江原道二十六郡)の 六字(六字) 七者(七字)で改訂(改正)で アンヒョブグンハ(安峡郡下)に鬱陶だね(鬱島郡) 三者(三字)を添入(添入) 死(事).

祭祀組(第四條).警備(経費)(経費)私は 五等君(五等郡)で用意(磨錬)号 現金間(現今間)となると李額(吏額)が 未備(未備)すべてで敍事草創(庶事草創)岐路 ヘドスセズング(該島収税中)で考選(姑先) 用意(磨錬)する死(事).

ゼオゾ(第五條).微震(未盡)下 製造(諸條) 本島開圻(本島開拓)を 数(隨)下野この際(次第) 用意(磨錬) 死(事).

光武巳年(光武圏年) シブワルイシブオな(十月二十五日)
御押(御押) 御璽(御璽) 棒(奉)
チック(勅) ウィゾングブイムシソリチァンゾングネブデシン(議政府臨時署理賛政内部大臣) イゴンハ(李乾夏)


日本側では大韓帝国勅令第41号での 石島がどの 島なのか不明するという理由で大韓帝国は独島を自国の領土で認識するの なかったと主張する. 

以下では大韓帝国勅令第41弔意 '石島'がどうして独島なのかに 大韓実証的で日本側が納得するに値する根拠を提示しようとする.

石島の名称上考察を通じる立証



石島をハングルで 解けば 'ドルソム'だ. ドルソムの辞書的な意味は "石が多い島"を指称するのに,普通このような島は 別に役に立たない島が大部分だ.韓国ではこんなに特別に偽名(島名)を 付与する価値がないドルトソングイの小さな島を 'ドルソム'という一般名詞として 指称して来た.

独島の韓国歴史の中固有名称は '傘も(于山島)'だ.この傘島という 名称が 19世紀末鬱陵島開拓を筆頭で,他地人たちが鬱陵島に大挙流入されながら彼らは 石が多い島である 'ドルソム' 方言で 'ドックソム'と称したし,特に 大韓帝国勅令第41号でこんな鬱陵島現地人の呼称を反映して '石島' すなわち 'ドルソム(ドックソム)'と記述したのだ.しかし相変らずソウルの識者層は 昔の書籍や地図に根拠して独島を傘島と称する場合が多かった. 1907年張志淵(張志淵)が著わした大韓帝国の 教科暑中仮装(家長) 科学的にその内容を構成したと評価されて,一番多い部首が発行された 地理教科書大韓真摯だ( 大韓新地志) 坤 43ページで "于山島は 其東南に(鬱陵島東南の方に) 在ハニだと" という記録はその恨み事例だ. 

近代鬱陵島には初期移住民 中全羅道南海岸出身 人々が多かった.高宗実録高宗 19年(1882年) 6月 5日(己未)條に,鬱陵島探査を終えて帰って来た李堰怨が高宗皇帝に 鬱陵島には全羅道人々が一番多かったと報告する部分が出る.


教曰 吾邦人多入去 采薬造船乎.〓遠曰 湖南人最多 . 全為造船採〓採鰒 其外他道人 皆以采薬為主矣.

(高宗が) 下校するのを, 我が国の人がたくさん入って行って薬剤もあかして船も作るか? と言ったら李堰怨が申し上げるのを,"湖南(湖南) 人々が制である多かったです . 全部船を作るとかわかめと転覆を取ることをしたし その外の他の道(道)の人々は皆薬剤をあかす事を 主としました." と言った.
李堰怨の調査※によれば,鬱陵島に ある内陸である数は 182~192人に達した.この中全羅南道が一番多い 115人だったし,次が江原道ピョングヘインが 14人,慶尚道京主人が 12人,京畿道 坡州人が 1人だったし,声明(名前)·出身地域不明の人 4,50人が あった.これらは主に船を作る事(造船)をしたし(126人) その以外 わかめ採取薬草採取に携わったが,春に鬱陵島へ来て木を切って船を作るとか,わかめを取って肉を雑高 出てまた内陸に帰った. 朝鮮の長年の鬱陵島公道政策にもかかわらず鬱陵島を生の基盤で していた朝鮮人がかなり多い数存在したことを分かる. 

下表は李堰怨が 鬱陵島検察をしながら会うとか周辺人たちから居住するという事実を 靴で確認した人と彼らの作業内容だ. 李堰怨は鬱陵島で人がゴズハルだけ所を隅隅まで実体調査(実査)したので当時 この人員以外鬱陵道人は存在しなかったと考えられる. 


かけてす   代表者/関連者   代表者の出身者(元々 居住地)  作業内容  会った場所/現在地名
4月 30日  金載根(金載謹)/格調を(櫓だね, 船人) 23人(24人)
全羅道フングヤング(興海 日記専門: 興陽) 三道(三島)
造船採〓(お腹乾燥及び わかめ採取)
小黄土欧米(小黄土邱尾)/ハックポ
5月 2日
催性で(崔聖瑞)/格調を 13人(14人)
江原道評して(平海 ; 現慶尚道)
造船(お腹乾燥)
大黄土欧米(大黄土邱尾)/台霞


全書な(全瑞日)
慶尚道涵養(咸陽)
?
小黄土欧米(小黄土邱尾)/ハックポ
競走人 7人
慶尚道慶州(慶州)
採薬(薬草採取)
大黄土欧米(大黄土邱尾)/台霞
連日人 2人
慶尚道連日(延日)
伐烟竹(煙竹採取)
大黄土欧米(大黄土邱尾)/台霞
5月 3日
イギョングチル(李敬七)/格調を 20人(21人)
全羅道落雁(楽安)
造船(お腹乾燥)
倭船菖蒲(倭船艙浦)/天賦(天府)


キム・グンソ(金謹瑞)/格調を 19人(20人)
全羅道フングヤング(興陽) 初度(草島) 
造船(お腹乾燥)
倭船菖蒲(倭船艙浦)/天賦(天府)
朴騎手(朴基秀)
慶尚道大邱(大邱)
?
ズングボング(中峰)/?
声明(名前)未詳 4~50人
?
採薬(薬草採取)
ズングボング(中峰)/?
征夷号(鄭二〓)
京畿道坡州(坡州)
薬商(薬草上な)
ズングボング(中峰) 山腹/?
5月 4日
ゾンソックギュ(全錫〓)
慶尚道涵養(咸陽)
採薬(薬草採取)
聖人峯で東に 10里落ちた地点
5月 5日
ギムネオン(金乃彦)/格調を 12人(13人)
全羅道フングヤング(興陽) 初度(草島)
造船
薪G-4(長斫支浦)/使動
5月 10日
変更化(卞敬化)/格調を 13人(14人)
全羅道フングヤング(興陽) 三道(三島)
採〓(わかめ採取)
道方庁浦口/ドドング


ギムネユン(金乃允)/格調を 22人(23人)
全羅道フングヤング(興陽) 初度(草島)
造船
トンググミ(桶邱尾)/トンググミ

※ 地理学研究 第40冊 2号,2006 (pp.213~228)'李堰怨の鬱陵島検察日記に現われた地理的情報'/精鉱中/ pp.221の図表を 土台で '李堰怨の検察日記(独島領有権資料の探求第2冊/シン・ヨンハ/1999)','鬱陵島検察ギェボンチォ' を参考して作成. 本学術だ図表には 4月 30日記録に '金載根と格調を 13人'で記録したが, 確認結果 23人が正確だ.

鬱陵島 開拓当時の移住民たちが独島に 特別な名称を付与しないで石が多い島である 'ドルソム' あるいは彼らの 方言で 'ドックソム'と発音しながら, ドックソムを漢字で訳す過程にその意味を盛る場合 石島で,その音を取った 焚く 独島になったのだ.これと 同じサヨングリェは全羅道地方を中心にして全国的に現われる一般的な サヨングリェだったことをシン・ヨンハ教授が韓国地名大辞典で隅隅まで調査したし, 今も鬱陵島住民たちが独島を 'ドックソム' あるいは 'ドルソム'と呼んでいて,大韓帝国勅令第41好意 石島が独島を指称するという主張はその根拠が明らかだと言うでしょう.


類似 事例の 提示

このような跡は 1682年 東国輿地勝覧の参照指導で知られた '動輿費で'でも 捜してみることができる.全羅道地域に '独島'という 名称を持った島があった. 

20世紀草葉にもそういう 事例があった.全南務安(務安)の 'ドックソム'を '独島(独島)'で,済州(済州)にある 'ドックゲ'を 'ドックポ(独浦)'で表記した例が '増補文献費で(増補文献備考)'33,であられて(与地考) 21,解放(海防) 済州·無顔組(済州·務安條)に 出る. 

しかしいつから石刀(ドルソム, ドックソム)という名称が '独島'に定着されたかは明確ではない. 独島という 名称が初めて登場することは 1904年日本の海底電線網仮説のために派遣された 日本軍するニタカホの日誌である.

日本海軍の軍艦申告行動だろうか(軍艦新高行動日誌)


軍艦新高行動日誌
二十五日(月)
AM.BC NE-NNE 2-4
PM.BC NNW-N 1-4
30.84-30.17
正午位置 34-54-0N 129-17-15E

午前十一時釜山港沖ニテ沖繩丸ト別本艦ハ速力カヲ増加シテ午後三時竹敷港ニ帰着シ鹿ケ小島ノ北北西三/四二 三/四ニ投錨スB午後五時沖繩丸入港スB石炭搭載第十二艦隊佐度国丸出航B十八艦隊入港スB

松島ニ於テリアニコルド岩実見者ヨリ聴取リタル情報Bリアンコル岩韓人之ヲ独島ト書シ本邦漁夫等略シテリヤンコ島ト略称セリB別紙略図ノ如ク二個岩嶼ヨリ成リB西嶼高サ約四百 険沮ニシテ登攀ルコト困難ナルモ東嶼較低クテ雑草ヲ生シ頂上稍稍平坦ノ地アリB二三小舍ヲ建設スルニ足ルト云フB

淡水東嶼東面ノ入江内ニテ少許ヲ得又全嶼ノ南方B点水面ヨリ三間余ノ所ニ湧泉アリテ四方ニ浸出ス其量稍稍多ク年中 渇スルコトナシB西嶼ノ西方C点ニモ亦清水アリB

嶼ノ周囲ニ点在スル岩ハ概シテ扁平ニテ大ナルハ数十畳リ敷クニ足リ常ニ水面ニ露出ス海馬茲ニ群集スB両嶼ノ間ハ船シ緊クニ足ルモ小舟ナレバ陸上ニ引揚リルヲ常トシB風波強ク同島ニ緊泊ニ難キ時ハ大抵松島ニテ順風ヲ得避難スト云フB
25日(月)
AM.BC NE-NNE 2-4
PM.BC NNW-N 1-4
30.84-30.17
正午位置 34-54-0N 129-17-15E

午前 11時釜山港(釜山港)でアキナワマで(沖繩丸)と別個に本することは速力を増加させて午後 3時ダケシキ(竹敷港)に帰した.カネが(鹿)小島の北北西3/4で 2リョン( ) 3/4に錨を投げた.午後 5時沖繩床(沖繩丸)に 入港する.石炭を搭載(搭載).第 12艦隊使徒駆魔で(佐渡国丸) 出港,18艦隊入港する.

Matsushima (松島,鬱陵島)で ‘リアングコルド島(リヤンコ ルド)岩を実際に見た人に聞いた情報だ.‘リヤンコルド’岩は韓人(韓人)が彼を独島(独島)と書いて本邦(日本)漁夫たちは略称して ‘リアングコ(リヤンコ)’島と言う. 別紙の略図(略図)と一緒に二つの岩島(岩嶼)で成り立ったが西の方島(西嶼)は高さが約 400 フィートで険峻して上がりにくいが東島(東嶼)は比較的低く雑草が伸びているし頂上に少し平坦な地があって 2,3個の小史(小舍)を建設するには十分だ.

淡水(淡水)は東島(東嶼) 東面(東面)で入って来る川で少量得ることができるしまた同じな島の南側 B支店に睡眠から 3間舍の場所に水が 湧き出る泉水があって四方で浸出(浸出)する.その量が多く年中枯渇する事がない.南側島(西嶼)の西の方 C支店にもやっぱり清い水がある.

島周りに点在(点在)一岩石はたいてい偏平で大きいことは数十があちこち位しているしいつも睡眠に露出している.竜の落とし子(海馬)がここに群集している.二つの島の間は梨を担ぐに十分だが小さなお腹なら陸上に引揚することが普通で風波(風波)が強くて同じ島にお腹を担いでおきにくい時は大抵 Matsushima(松島)で順風を待って避難すると言う.

(Steve Barberさんがハングル解釈本を送ってくれるの,これを参照,何箇所修正して 邦訳した.この席を通じてバーバーさん夫婦に感謝いたします. 残り資料もよく活用しています.)
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 この資料は日本軍艦ナタカホ(新高号)が 日本海軍司令部から独島(リアングコルド島)にロシア艦隊の動態を見張るための日本海軍望桜(海軍 望樓) 設置のために予備探索調査をしなさいという命令を受けて,1904年 0月 25日これを実施した日記の一部分だ. この記録で 1904年当時 '独島'という名前が存在したことを 確認することができる. 

この資料といっしょに 1902年在韓日本工事の鬱陵島出張報告書と,1903年一年統語指針 二つの記録をよく見よう.

一年統語指針には,限りである漁夫と日本漁夫が独島を羊して 島 ( ヤンコ島) だと称した ので記述したし,釜山駐在日本領事館の鬱陵島出張報告書な '韓国 鬱陵島事情'にやっぱり韓人が 独島を呼ぶ呼称が省略されたままリアングコも(リアンコ島)という洋式名称で独島を 説明している.

日本では普通以上の資料を持って当時韓国には独島に対する特定の 名称が なくて日本人が使った名前(正確には西洋の独島名称)を一緒に使ったと する.

たぶんこれは事実である可能性が大きい. ドルソム(石島)は石が多い島を称える 普通名詞で島の特定の名称ではないから,日本人が鬱陵道民に当時独島の呼称を 問い合わせて見たら,鬱陵島現地人はその島が 'ドルソム'で特別な名前が ないと答えたはずだからだ.

こんなに見る時,大韓帝国勅令での 石島は石が多いドルソム(石島), 独島が明確なのだ.同時に '石刀(ドルソム)'で '独島'への名称上定着が成り立った時点に対しては 1903年で 1904年前後ではないか推正して見られる.


洋式 名称との類似の命名(命名) 方式

大韓帝国政府が大韓帝国勅令第41号によって鬱陵島とその付属島嶼を 一つの 郡で独立させて鬱陶君を設置しながら独島を '石島'だと表記した 方式は 1849年フランス捕鯨船リアングクル(Loancourt)呼値 '独島'を 'Loancourt Rocks'と付けた命名方式と似たり寄ったりだ.西洋人の視覚でも独島は岩石(Rocks) としてこれを鬱陵島漁民と大韓帝国 管理の方式で見れば,独島=石島(ドルソム)=Loancourt Rocksであるのだ.

Loancourt Rocksを日本式発音で リヤンコ ルド(リアングコルも)岩になって,これを減らして リヤンコ(リヤングコ)島 あるいは ヤンコ(ヤングコ)島と呼んだが, 日本も西洋と同じく 'ドルソム(石島)'という意味で独島を称したのだった.

西洋で独島を初めて見つけたことは 1848年 4月 17日アメリカの捕鯨船チェロキ(Cherokee)号であり,その後 1849年 1月 27日フランスの捕鯨船 'リアングコル'号が独島を見つけて,この配意名前を 取ってLiancourt Rocksだと名付けて, この名称で広く知られるようになった.
西洋で独島を始めて 見つけたチェロキホ(Cherokee号)の航海日誌 主要内容は次のようだ.


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チェロキ号 船長 ゼイコム L.クルリブルランド

1848年 4月 16日日曜日
良くは 一つ曇った天気と南南東実風で始める.鯨油を絞るために 鯨油固まりを煮りながら東に航進こんにちはだった.ブラックフィッシュ(鯨の 一種)を見た.日の暮れにばりばり東 15 ないし 20マイルに位した 鬱陵島を 見た.
中盤.南南東景風が吹いて曇った.(油固まりを) 煮りながら ちょっと北に機運東に航進こんにちはだった.
終盤※ 良いことは良いが曇った天気で南側景風が吹いた.(油固まりを) 煮りながら南東方へ航進こんにちはだった.イルカたちを見た. 南東の方 20ないし 25マイルに位した私たちの 海図に 記載していない二つの小さな島を見た.北緯 37゜ 25‘,東京 132゜ 00’ 6
※ 午前4時~12時間

以後アメリカの捕鯨船 モックテズマ(Moctezuma)呼値 1849年 3月 2日,3月 9日鬱陵島とともに pinnacle rockを見たという事実を記録しているのに,独島の正常が尖ったような 形象をしているから pinnacle rock すなわちチォムタム岩と呼んだことと見える.
引き継いで 1949年 3月 18日 Wolliam Thompson号は鬱陵島東南の方 40マイル頃にどんな しても(海図)にもない 3 Rocksを見たという記録があって,カンブリア(Cambria)呼値 1849年 4月 28日には鬱陵島を見たし,29にはヘドに積まれていなかった the small islands(二つの小さな島)を見たと 記録したし,このおこるには鬱陵島と独島の絵までスケッチしておいている.



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1853年 4月 18日ヘンリ ニルレンド(Henry Kneeland)号は 1853年 4月 18日鬱陵島と seal rockを見たし, seal rockに上陸しておっとせい 7匹を捕ったと記録した.ここで seal rock すなわちおっとせい岩はすぐ独島を示して,独島で取ったという seal(おっとせい)は あしか(海驢)であるのだ.

1857年 3月 27日 Plorida号は Dagelet rock(鬱陵癌)を見たと言ったし,4月 7日には '鬱陵島と鬱陵癌の 中間位にお腹があったが,皆見た'と記録した.ここで Dagelet rock(鬱陵癌)はすぐ独島として,これを通じてこれらが独島を鬱陵島の付属島嶼(属島)で認知して あったことを分かる.(以上西洋資料; 一手当たり研究資料集第361冊で 抜純)

以上と一緒に西洋人の目に映った 独島は岩で成り立った島だった.これを韓国語で解けば 'ドルソム' すなわち '石島'であるのだ.こんな西洋の独島に対する記録は大韓帝国勅令第41号での 石島が独島というまた 一つの証明になるはずであり,理解相対国である日本ですら当時独島を 岩島(リアングコルも岩 )と称したという点で 石島が独島ではないという主張はその根拠が 稀薄だと言うしかない.


観音島は 島項という特定名称が存在


1882年李堰怨が鬱陵島検察社に任命されて鬱陵島を実体調査して 高宗皇帝にあげた鬱陵度外も(鬱陵島 外図)を見れば鬱陵島のあたりには 竹島,渡航(島項)の 二人の名前が島に報告されてその外は癌(巌)という障害物(岩礁)で扱ったことを 分かる.

大韓帝国勅令第41号では 鬱陶(鬱島)の 区域で "鬱陵前途と竹刀(竹島),石刀(石島)を鬱陵邑の管轄 区域にする"と露している.勅令第41号では 竹刀(竹島)という名称がもう登場する.そうするので 石刀が竹刀(竹島)になることはできない.鬱陵島で 独島までの周り海には島だと呼ぶことができる ので竹刀,観音も,独島の 3島以外にはないので 勅令での石刀(石島)は '観音も'や '独島' 二つの島重い 島だ.  

鬱陵島外道(鬱陵島外図; ソウル大学校 キュジャンカク所長)
障害物にも各各その名前が付けられたし,島に特定ののは 渡航とおかゆも 2島だけだった.
鬱陵外図の東北方向拡大も右側で 90度回転した絵
左側島が 竹島,右側にある島が 島項(観音島)


'鬱陵度外も'を 見れば観音も(観音島)は彼 当時,渡航(島項)という名前が存在していた.これと ほとんど同時期日本側記録をよく見よう. 

日本では 幕府政権が崩壊されて 明治(明治)維新政権が樹立されることと同時に 鼎韓論(征韓論)と対外侵略が鼓吹されると, 韓国である出漁者(出漁者)·導線者(渡船者)ら間で, 鬱陵島に ミルイブして森林(森林)を伐採(伐〓)真書本国に運送して 販売して利益を取る人々も現われて次第に 増加するようになった.

こういう 事実が 1881年 5月鬱陵島を 水土(捜討)した調査官員に摘発されて 江原道観さつ使を通じて中央政府に報告されたし,彼 対策の一つで 1882年 4月,鬱陵島防水(防守)のために 符号だね(副護軍) 李堰怨(李〓遠)を 鬱陵島検察社(鬱陵島検察使)で任命して現地に 派遣して詳らかに調査するようにした.ここに朝鮮調整では 鬱陵島に侵入した事件に対して日本政府に抗議公文書を送るようになったし, 日本がこれを受け入れて,1883年鬱陵島滞留日本である田園を帰国させようと日本内務省職員及び 20余名の巡使を鬱陵島に派遣した.

朝鮮国蔚陵島出張桧垣内務少書記官 復命ノ件 収録鬱陵賭地も click
右側下端部観音も 部分切断 click


上 指導はこの時鬱陵島に派遣されたヒがキ内務小暑機関の報告書( 朝鮮国蔚陵島出張桧垣内務少書記官 復命ノ件)に 収録された鬱陵島指導にこの指導にやっぱり観音島は渡航だと表記して あって,観音島には特定された名称があったことを確認する ことがある. 
この指導には現在の鬱陵島の '島目'を '観音期(観音崎)'として表示したが,観音島という 名前は島目を指称した '観音期(観音崎)'で自然に島目の前の島である '島項(観音も) 'を のぼる名称で席を取ったように見える.島項を ハングルで解けば,'島目'だ.このような名称上の考察を通じて当時 鬱陵島現地人たちは観音島を岬(岬, 崎,cape)である 島目と同一視していたことを分かる. 

このような 跡は 1906年独島を視察した奥しなさいヘキウンの竹刀級鬱陵も(独島 及び鬱陵島,1907)収録 '鬱陵島指導'を通じてももう一度確認することができる. 観音期(観音崎)が観音島をジックゾックゾブと指称する島名称で 記録されている. このように観音島は "海方へ狭くて長く伸び出た 陸地の一部分"を指称する岬(岬,cape)とつながった島として 認識されたのだ.あれほど観音島は鬱陵島に近接した島だ.  



奥しなさい ヘキウン(奥原福市)の '竹刀級鬱陵も(竹島及鬱陵島,1907年) 収録鬱陵賭地も pp.63~64
右側おかゆにも(竹嶼島) 観音期(観音崎) 部分切断

こんなに 見る時,大韓帝国勅令第41湖上観音島は鬱陵前も(鬱陵全島 )に 含まれたと思うことが合理的だろう. 

このように 19世紀末観音島は 鬱陵道民の間で 島項(島目)という名称と呼ばれていたし,鬱陵島 開拓当時の鬱陵道民は観音島をカックセがたくさん住むと言って 'カックセソム'という また他の名付けたし, カックセソムというハングル名称は現在にまでも使われている.このように観音島には 漢字式名称と純粋ハングル名称が皆存在した島だ.したがって, 大韓帝国勅令第41号で名前いないドルトソングイの 島を示す 石島(ドルソム)という名称で使われる何らの理由がないし, 当時韓国人は観音島を島目とつながった島で認識したという点で大韓帝国 勅令に別にその名前を取り上げる必要もなかった島であることだ.


観音島は ドルソム(石島)ではない.

観音島はドルソム(石島)と呼ばれるにも適切なの ない島だ.四方の切り立ったような絶壁を抜いてからは島全体が草と 木で覆われていて,'石が多い島'という意味のドルソム(石島)と呼ばれた事例もない.
カックセがたくさんソシックハンダハなの 'カックセソム'で 殖やす観音も
写真の出処;http://blog.naver.com/skpark2222?Redirect=Log&logNo=120027240630 

観音島は 独島洞·書道全体面積(0.186〓)医薬 40%にちょっと及ぶことができない やや小さい島だ.面積 0.0714〓,高さ約 100m,まわり約 800mだ. 鬱陵島苧洞港では 5km,島目からは 100m 離れている.形態が 人の左側足裏模様と似ていて,鬱陵島 3大絶景中一つだ. グァンウムサンググルだと言う高さ 14mの海蝕洞穴(海蝕洞窟) 2個があるのに, 天井から落ちる水を受け取れば長生きするというお正月が伝わる.観音島が ドルソムだと呼ばれたことがないのに,大韓帝国勅令第41号で観音島の当時 名称を排除して急に 石島(ドルソム)と呼んだ可能性は全然存在するの ない. 


李堰怨(李〓遠 )の 鬱陵島検察ギェボンチォ


観音も(観音島)が大韓帝国 勅令第41号の石刀(石島)ではないという事実は 李堰怨が高宗皇帝にあげた鬱陵島検察ギェボンチォ[鬱陵島 検察 啓本草, 光緒 8年(1882 高宗 19)]でも確認される.
この時李堰怨検察社一行(総 106人)の鬱陵島実体調査は 公道政策を実施した以後鬱陵島に対する公式的で本格的な調査資料としては 最初という点で非常に重要な意味がある.もちろん以前にも国王に 報告するための形式的な調査はあったことで思われる.すなわち高宗実録に よれば,元々鬱陵島に対しては三尺令状(三陟営将)とワルソングマンホ(越松万戸)が ドルアがミョで捜索して検閲して国王に報告したことに記録されているが, こんな大規模調査団を派遣したことは初めてだった. 

李堰怨の 鬱陵島検察ギェボンチォ( 李〓遠 鬱陵島 検察 啓本草 )
 初九日 乗小艇向西 而行十余里 至香木邱尾 臨海 壁 形形色色 怪怪奇奇 不可勝道 (中略)又有一浦 名船板邱尾 南辺洋中 有二小島 形如臥牛 而左右回旋 勢若相抱 一曰竹島 一曰島項 只有叢竹而已 日暮 下陸 結幕止宿於竹岩下
5月 9日.やや小い船に乗って西の方に 10余里に行って 香木邱尾に至ったら海岸の険しい 石壁が形形色色奇奇怪怪して 到底言えなくて,(中略)また一つの潟が あったが名前は 船板邱尾だったし,南側海の中二つの 小さな島がありました.模様が横になっている牛のようだったし 左右(周り)を見回ったら形勢がまるでお互いに抱いているように しました.一つは 竹島 (デッソム)だと言って一つは 島項 (島目,観音も)といったが, 甘いのか竹がびっしり者といるだけでした. 日が暮れて陸地に降りて 竹岩(デバウゴ-ル) 下幕を打って 止宿しました.

5月 13日の報告に李堰怨は次のように使って ある.
十三日(省略) 

倭人之占幕一隅 積有年所 課日伐木 輸之本国 有若外府然 甚至有立標之挙 適其時 無安竜福其人 任其恣行無憚 然臣於盤詰之際 察其色辞 動輒誘人 其辞多慙 是必渠自犯科 非有指使耳 所謂入標 姑不抜去 以為憑実之計是白乎 乃検察之前 自来聞曠 猶無綸己 今於検察之後 若又不問 是無異?許 狡倭之倫斫矣 移書致詰 恐不可已 松竹于山等島 僑寓諸人 皆以傍近小島 当之 然既無図籍之可拠 又無郷導之指的 晴明之日 登高遠眺 則千里可窺 而更無一拳石一撮土 則于山之称鬱陵 即如耽羅之称済州是白如乎.....
13日(省略) 

倭人たちが一角を占拠して幕を打ったことは長年の時日の間 日々に伐木して本国に送ってまるで彼らの辺方であるようで 甚だしくは 標木を立てた事まであったから,あの時に迎え 安竜福という 自家なかったら彼らがわがまま行って忌憚することがなかった のです.しかし 臣が叱って水を頃にその表情を見るから ひょっとすれば人を欺くことはするがその言葉には恥ずかしがることが 多かったからこれは必ず彼らが自ら犯行したことであって他人の 指示に従ってしたのではなかったです.いわゆる 標木を立てた のに対してわざと取り外してしまわないことは事実の徴憑で する計策だったが今度検察をする前にはデマだけが 下ってむしろ自分を拘束することはオブオッジマは今 検察をした後にもしまた不問に付けたらこれは狡い倭人が 密かに伐木することを見逃すことと違うことがないです.文書を 送って追窮しても多分やめないことが恐ろしいです.

"松島,竹島,于山島 などは (我が国の民で) その所に住む多くの人々が皆あたりの 小さな島だと当然視していました. しかし 根拠するに値する地図や門跡もなくて,また教えてくれる案内者も なくて,清明な日に高い所に上がって遠い所をよく見ると一天里を よく見られました.するが (鬱陵島外に) またまた限り 拳の石もと言ったウムクムの土(他の島)もなかったからおこる すなわち傘島を鬱陵島だと称するのが耽羅を済州島と称する ののようなことではないですか."....


この文で 松島,竹島,于山島を我が国の民が皆あたりの 小さな島,すなわち,韓半島に付いた付属島嶼として認識していることを明らかにしている.  松島,竹島,于山島 三島を皆韓国領で話しているし, いっしょに鬱陵島周りに別に大きい島が存在しなくて鬱陵島を昔の名称である '于山島'だと 称することは,済州島を昔の名称である耽羅(耽羅,朝鮮初期までこの名称で 済州島を称する)と呼ぶことと違うことがないことを指摘している.李堰怨 自分は鬱陵島検察のために高宗皇帝と対面した,1882年 4月 7日 高宗皇帝に傘も(芋山島)はすぐ鬱陵島(鬱陵島)で,ここで 2,30里 落ちた所の島を 松竹島(デッソムである竹刀)だと言うと発言した事がある.しかし 鬱陵島 検察に臨海李堰怨のこのような失言が明らかにすぐつかまった.

李堰怨は鬱陵島実体調査を開始した 以後, ずっと 松島は鬱陵島,竹島は現在の 竹刀(Jukdo),観音島は '渡航(島項)'という島で 記録した.鬱陵島検察ギェボンチォ 5月 13日付け報告で重要なことは李堰怨が鬱陵島とその周りの代表的な 島を 列挙しながら,島項だから記述された観音島は別に名を呼んでいないというのだ.すなわち,鬱陵島を 代表する部属島で竹刀と傘も二つの島のみを言及することで,観音島は 竹刀と傘も二つの島に比べてその重要度が大きくないということを表現しているのだ. 大韓帝国 勅令第41号での 石島が傘島である独島になるしかないまた一つの 重要な根拠になるでしょう. 

韓国歴史の中で鬱陵島に附属した代表的な島に言及されたことは 傘島だった.たまに鬱陵島に派遣された水土官たちが鬱陵島で独島を見つけるの できなくて,昔の文献や地図の上の傘も(于山島)を鬱陵島北東の方の竹刀(Jukdo)で 勘違いした場合もあった.しかし上の李堰怨の鬱陵島検察ギェボンチォでは傘島と 竹刀を他の島で竝べて,傘島が竹刀ではない独島なのを確かに明らかにした.

このような事実をまた確認することができる資料が 黄城新聞 1899年 9月 23日付け記事であり,日本側 記録で '朝鮮開化史'が挙げられる.


黄城新聞の 傘も·竹刀記事

現地事情にオドオッドン一方,文献と手軽く接することができた中央(ソウル)の 官僚たちは鬱陵島開拓がよほど進捗された 19世紀末までも独島を傘も(于山島)と 呼んでいた.光武 3年(1899) 9月 23日付け '黄城新聞(皇城新聞)'は 全面に「別報(別報)」で鬱陵島の歴史とラポテの鬱陵島視察を記事化して あるのに,その始めて頭に,次のような文が載せられている.


黄城新聞 1899年 9月 23日付け記事; クゲボギ -click(資料出処; 独立記念館)
蔚珍地動して(鬱珍之東海)に一刀(一島)が油(有)お前ワル(曰) 鬱陵(鬱陵)と期(其) 部属(附属)一小六道中(小六島中)に最低者(崔著者) 傘も(于山島) 竹刀(竹島)だから大韓誌だ(大韓地誌)にワル(曰) 鬱陵島(鬱陵島) 故友山菊(古于山国)と.  

鬱陵島近くには 6個の 島があり, なかでも最大の島が竹刀と傘も(于山島)という調査内容だ. 実際,竹刀が一番大きくて,次に大きい島が独島なのを考慮すれば,傘島が 独島であることが明白であり,勅令第41号での 石島(石刀) また鬱陵島 部属図書中一番重要視した二つの島中一つで,石刀(石島)が傘も(于山島)である 独島という事実には疑問の 余地がない. 

李堰怨の鬱陵島の調査見てからは鬱陵島 開拓と大韓帝国勅令第41号を発するのにウヨングゾングの 報告書といっしょに その基礎資料に活用された.'石刀(石島)'は '独島'として, 大韓帝国は独島が歴史的に私たち領土なのをめっきり認識して,勅令第41号で 日本より 5年先に進んで,私たちの領土で露したのだ.


韓国歴史の中 記録を通じて 石島が独島なのを立証



click (以前文を参照)

大韓帝国 勅令第41号が公表された以後の韓国記録を通じる立証

1906年 3月,鬱陵軍需シムフングテックは日本の 独島領土編入に対する通告を受けて,急に江原道観さつ使に報告した. この時,シムフングテックは本郡所属独島(本郡所属 独島)と言って,独島が鬱陵島(鬱陶)に 属した島なのを明らかにした.この報告書を接した議政府参政代わり朴斉純は日本側が独島が日本領地と主張することは全面的に根拠ない主張に属したら 独島の都合と日本人たちがどんな行動をしているかはまた調査して報告しなさいその指令こんにちはだった.
黄県の呉夏期文科メチォンシルロックにやっぱり鬱陵島の付属島嶼で独島を 言及して大韓帝国固有の領土で描いた.

鬱陶軍需シムフングテックから中央政府,そして言論と民間のこのような一連の 資料を通じて私たちは 1906年当時大韓帝国が独島を行政区域上鬱陵島に属した 島として認識していたことを分かる.

ところが,大韓帝国がシムフングテックの 報告書が出る以前に鬱陵島周りの領土境界を露したことは大韓帝国勅令第41号が唯一だ. 1906年 南面と北面以外に書面(西面)が新たに新設されたし,勅令第47号で 慶尚南道に偏在されたがこの行政措置は 9月 28日の仕事だった. そうだったら,少なくとも 1900年大韓帝国勅令第41号に独島が含まれたことが 証明されるとするでしょう.1906年地方行政区域を整理しながら南面の南洋,石門,トンググミ,南西,九岩の 5ヵ洞と北面の台霞,ハックポの 2ヵ洞を竝合して書面を新たに設置したし,
大韓帝国勅令第41号に先立って 竹島(Jukdo)が言及されたので, 勅令上 石島は観音島や独島になるしかなくて,鬱陵島で約 87km離れた独島を勅令から除いて, 鬱陵島に ほとんどブッオイッダシピした観音島を別に記述する何らの理由がない.観音島は別に言及をしなくても当然鬱陵島に付いた島であることだ.
したがって大韓帝国勅令第41号の 石島は独島という 結論が出るしかない.

(国語学者 故方鐘磯教授の '独島の一日)

石刀と係わって国語学者である故(故) 方鐘磯(方鐘鉉)教授は 1947年 8月に独島を視察して帰って来て紀行文 '独島(独島)の一日'を '京城大学(京城大学) 予科新聞(予科新聞)'に寄稿したが, この記録はまだ韓日間独島領有権紛争が本格化される前の文として比較的 客観的な視覚で独島の語源を明らかにしているという点でその価値がある 資料だとするでしょう.

 私は終りにこぶ(或)はこの島の名前が 「石刀(石島)」意義(意)から来たのではないか思われる. これは「ドルソム」または 「ドックソム」の二つと呼ぶことができることだからここで問題(問題)はこの独島(独島)の外形(外形)が全部(全部) 石になったように見えるようになったと言うこととまた 「石」をどの方言(方言)から「毒」と言うかを解決(解決)すればこの石刀(石島)という名称(名称)がほとんど近い解釈(解釈)になるとするでしょう.ところでこの独島(独島)はやっぱり(亦是) 石になったしドルプンですむしろ土がないとする.それでは次に 「石(石)」が「毒」と言うことは全羅南道(全羅南道)の海岸(海岸)でもこのようにする所がある位 「絶句」を 「ドグトング」と言うとか 『わ(碁)を「石」または 「囲碁」で,「ダドミドル」を 「ダドミドック」とも言うことなど(等)に照らして鬱陵島(鬱陵島)の地名(地名) 例(例)と一緒にこの島はやっぱり(亦是) 石刀(石島)意義(意)である 「ドックソム」と考えられる.  

(古色蒼然一 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して !)

鬱陵島·独島学術調査の時 学術調査団大将で鬱陵島と独島を直接探査なさった宋錫夏(宋錫夏)先生の次の文を通じても 石島がすなわちドックソムに発音されたし,ドックソムが現在の独島なのを把握すること ある.



  浦項で 水路一百二十四海里 東チォックバダソックに 世上で低ぼかしを受けた のような 鬱陵島が 史上にナッアナギは 新羅 智証王十三年 [A.D.512]であり,至今から 一千四百三十余年 前だ. その後 高麗 太祖十三年の時に 土民 白吉 土豆 等が 方物を バッチョッウムで 正位と 正朝官職を与えた.また 毅宗十一年 [A.D.1159]に 溟州監倉 金柔立を送るよ見た 結果 村落基地 七個所と 石仏 鉄鍾 石塔 等はあるが 住民が暮すには 不便すると 報告した. その後 李朝 太宗十七年 [A.D.1417]には 按撫使 金麟雨が 鬱陵島で 大竹水牛皮綿子 検樸木 等を 献上したと言う. 
これら 歴史的記録は 同島 北西便 遺跡地域で 出土する 遺物で 能ヒ 説明できる.  しかし 世宗地理誌や 常識的に知られた大きくなるんだって(大竹) クンボックスングよ(大桃) みたいなことは 只今は 影子さえなくてただ 香木が 昔のザツェを言うように 絶壁右にやっと残っているだけだ. 鬱陵島の 人煙は 数次の 無人島時代をギョックグン後 只今から 六十四年 前に 開拓民の 移住から 始作下は 現在に至ったが 現存一 当時の 移民はやっと限り人が 沙洞というところ残っている だけだ.

イネドルの 移住当時の 産物でも 木材はその後 濫伐で 因しなければならない爆利刀なくて 全島エイッヌン 寄鳥 グァックセと海の 特産 全鰒は 只今は 滅種にガッがウォ この番 調査にも 発見できなかった.

鬱陵島で また 東便で 四十八海里に行けば群れの 脚光を受けたドックソム(独島)が ある.東西 ドックソムになるよ 西チォックソムがちょっと大きくなって 高度百五十七米突であり 西島は 噴火口があるが 只今は支えてその 下部には海物が ドルナックナルナックする.両島の間には 陷沒一 残骸が残っていて この 残骸を今度 調査隊では 獅子島だと 命名した.

歴史的では 李朝 成宗三年で 十二年(1472-1481)まで 十年間 この島の 問題が 沸騰下は 朴宗元を 敬差官ウロして我が国の 逃潜者を 捜そうと韓日があり 富寧人金漢京等歯軋りして 逃潜民に 劫ウルデで※ 上陸できなくて 図形だけ グリョワッダする.所謂三峯島捜覧問題だ.現在 島民の 唯一限り 生命線的 産業は 烏賊魚 漁業だ.七·八·九月の 3ヶ月の間は 島民の巨津 全部の 男子は 夕陽マンドエなら 発動機船で 海に出てウェンバムドングアン 捕獲真書アツムイルズックが 帰浦する. この海の 恵沢が 全島民 一万五千の 生命を受け継ぐ.



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(1)万頃蒼波!漁物に 漁民は 生活をかけて

(2)両島末端及獅子島 [中央] 右は 西島

(3)本島頂上で 鳥目瞰したこと

(4)三峰島全景

(5)鬱陵島の 特産品 イカ

(6)イカ 乾燥作業に 熱中する子供たち


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(古色蒼然限り 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して !/宋錫夏/国際補も 3冊1号(新年号) pp.328 /国際報道連盟/国立中央図書館所長,
テキストはこれ 資料を紹介して主神 'ボングが'様の文を引用したし,判読するの できなかった何字を精緻に分析の後記載した.木耳(?) --> 幅が, 時 --> 群れ,劫(?) -->劫)

※ 逃潜民(逃げて隠れた 人)に脅威あって

この文は 1947年 8月 16日から 8月 28日までの第1次鬱陵島·独島 学術調査団派遣がある直後書かれた文で,当時までも独島は 'ドックソム'と 称していたことを示唆していて, 独島の語源を糾明するのに 重要な意味があると言うでしょう. 

大韓帝国勅令第41湖上 石島(ドルソム)はドックソムである 独島おこることがもっと明らかで 負ける.


鬱陵島と 独島の特殊な関係を通じる立証



限りである歴史の中鬱陵島と独島は金持ち島 または兄弟島に描写された. こんな 2島との関係は独島(韓国; 傘も,日本;松島)だけ別にはなして, 文献と地図に記録した両国の記録が全くないことでもその実体を 把握することができる.独島は鬱陵島が存在しなかったら,益体もない島で 独島と鬱陵島は一つのウンミョングチェに把握されて来た.

このような現象は 1905年日本が島根県考試で独島を不法編入して 両国間外交懸案で登場する以前まで続いた.

1901年主婦山日本領事館の '韓国 鬱陵島事情' 第7 漁業の状況( 漁業ノ状況)で 独島を言及しているのに, 独島には 水が不足で 4.5日が経つと本島(鬱陵島)に帰って来ると記録した.

独島は鬱陵島ではないなら,漁業に単独で利用するから 難しかったので 独島は大きく注目されることができなかった島だったのをよく見せてくれている.

このような姿がよく現われている記録中一つがヤウエモングの文だ. (アイコンをクリック)
石州のヤウエモング(八右衛門)は 独島(松島)をまさに誰可能性も存在しない益体もない島で 記述した.独島は鬱陵島ではないなら,単独で利用することができないドルソムだったから鬱陵島と 一緒にするとその效用価値がある島だった.いつも鬱陵島とその運命を 一緒にする鬱陵島の部属島に認識されたのだ.



理解 相対国である日本の記録を通じる立証

独島がもう大韓帝国からその領土で露した島であることを日本でも よく分かっていた.
1900年大韓帝国勅令第41号が公表された 以後日本が 1905年島根県考試で独島を不法編入する時期前後の 日本側記録をよく見れば,間違いなく独島を大韓帝国江原道に属した 島で記録した.
1903年の一年統語指針,1904年の最新韓国失業指針(最新 韓国実業持針) このその代表的な著書であり,上で言及した 1902年釜山駐在 在韓 日本大使の '韓国鬱陵島事情'にやっぱり鬱陵島の部属島として独島を 記述した.

特に日本の島根県考試で独島を編入するのに主導的 役目をしたMakiボクシン(牧朴真) 農商無声水産局長と 野馬者N.Gで(山座円次郎) 外務省政務局長が序文を書いた一年統語指針 及び最新韓国失業指針に独島が大韓帝国の領土に記述されたことは示唆する ところが大きいと言うでしょう.

リアングコ島 領土編入院を出した 'Nakai邪曲部で' 自分までも本来独島が大韓帝国の 領土だと信じて独島利用請願を大韓帝国政府に出そうと思ったという事実まで 考慮すれば,この当時日本民官皆が独島を大韓帝国の領土で思って あったことを確認することができる. 
これは大韓帝国が独島を鬱陵島に附属した島で露したことを日本でも よく分かっていたということで,鬱陵島周りの島を特定する唯一の行政措置な 大韓帝国勅令第41号に独島(石島)が含まれたことを証明してくれる. このような事実から大韓帝国勅令第41号の 石島は独島なのを再び 確認することができる.


メッ うーん言葉



(独島義勇守備隊ホングスンチル大将の 自敍伝)
(内容出処; 日本人は死んでも分からない独島話88)

 お爺さんは いつも漢文で石刀だと言った島がドルソムでまた形態もドルソムなのに, 生じた姿が大様で絶海高度なので独島だとしたことが,また 新しい名前と呼ぶのが心に障りで 93歳に帰る 時まで何回恨んだことがある. 

鬱陵島開拓領が 下ろされて 1883年 4月鬱陵島に入った故(故) 洪再現翁は韓国山嶽会の 第1次鬱陵島独島学術調査団の案内を引き受けた人物で,在世に孫な ホングスンチル大将に "昔の本には傘もまたは石刀に記録されているのに, その所に行って見たら島が石になっていてその島をドルソムと呼ぶことに した."と言ったと言う.ドックソム(ドルソム)を漢字で訳す過程に彼 意味を盛った場合 石島で,その音を取った場合 独島になったのだ.

以上と一緒に大韓帝国勅令第41号での 石島は名称上考察を通じても その他資料を通じて現在の独島なのは明白だ.大韓帝国勅令第41号で観音島は鬱陵前も(鬱陵全島) に含まれているし,別に石刀(石島)という名称で骨切って表記する 理由がない.韓国の古地図や記録どこにも観音島を別に 言及した資料はない.鬱陵島開拓をちょうど始めた時期の李堰怨の検察日記と 鬱陵島外道で初めて挙論された島であり,当時渡航(島名)という特定された偽名(島名)で 殖やしていたから石刀(ドルソム)という名称を付ける根拠は全然存在するの ない.しかも観音島は 'ドルソム(石島)'ではなくて,またそれほど殖やしたこともない. 

したがって,日本の島根県かく大韓帝国でもう 5年前に彼 行政区域に含ませた '独島'を主人がない茂朱誌で上程して日本領土に 編入した国際法的に不法である考試になるのだ.

(文 作成日付け ; 2007.11.05)

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  • 最終更新:2009-03-03 07:24:36

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