愼鏞廈の戦後の動き 1


Q84.(カイロ宣言)

  連合国は第2次世界大戦途中で日本が敗戦すれば、侵奪した領土を元の主
人に返還させ、日本は元来の日本にもどるよう処置する政策をもっていたのか?

ANS.
  そうした政策をもっていた。まず、1943年11月20日、アメリカの大統領
ルーズベルト(Franklin D.Roosevelt), イギリスの首相チャーチル(Winston S.
Churchill), 中国総統・蒋介石らが会合したカイロ会談ではつぎのような「カ
イロ宣言」を合意、発表した。
       --------------------
  ルーズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及びチャーチル総理大臣は、各自の
軍事及び外交顧問とともに北アフリカにおいて会議を終了し、左の一般的声明
を発した。

各軍事使節は、日本国に対する将来の軍事行動を協定した。
  三大同盟国は、海路、陸路及び空路によって、その野蛮な敵国に対し仮借
のない弾圧を加える決意を表明した。この弾圧は増大しつつある。
  三大同盟国は、日本国の侵略を制止し、かつ、これを罰するために、今回
の戦争をしているのである。
  右の同盟国は、自国のために何の利益も要求するものではない。また、領
土拡張の念を有するものではない。
  右の同盟国の目的は、日本国から、1914年の第一次世界戦争の開始以後に
おいて日本国が奪取し又は占領した太平洋における一切の島嶼を剥奪すること、
並びに満州、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取した一切の地域
を中華民国に返還することにある。
  日本国はまた、暴力及び貪欲により日本国が略取した他の一切の地域から
駆逐されなければならない。
  前記の三大国は、朝鮮の人民の奴隸状態に留意し、朝鮮を自由かつ独立の
ものにする決意を有する。
  右の目的をもって、右の三同盟国は、同盟諸国の中で日本国と交戦中の諸
国と協調し、日本国の無条件降伏をするのに必要な、重大かつ長期の行動を続
行する(注1)。
       --------------------

 「カイロ宣言」は、日本から返還し日本を追い出すべき地域として、
(1) 1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取し又は占領した
 太平洋における一切の島嶼
(2) 1894-5年、清・日戦争以後、日本が中国から盗取した満州、台湾及び澎
 湖島など
(3) 日本が暴力及び貪欲により略取した他の一切の地域
 などであった。また、カイロ宣言は韓国の独立を約束した。

  ここで韓国領土は (3)の「日本が暴力及び貪欲により略取した他の一切の
地域」に該当する。また、この時期の上限は、1894-5年 清・日戦争時、日本
が中国から盗取した領土を返還対象に含めたことにわかるように、日本が大韓
帝国から1905年2月、独島を略取した時期を含むのである。“独島”も「日本
が暴力及び貪欲により略取した島」として韓国に返還されるべき対象として規
定したのである。

コメント:
  前回紹介したように、明治の国境画定機関であった海軍水路部は『朝鮮水
路誌』などでリアンコールト列岩(竹島=独島)を朝鮮領と認識しました。そ
れにもかかわらず、軍事的な必要性から同島を「ウソも方便」で「無主地」と
強弁し、日本が「領土編入」したのは「日本が暴力及び貪欲により略取」した
カイロ宣言に抵触すると考えられます。

(注1)<カイロ宣言(日本國に關する英、米、華三國宣言)>





Q85.(独島の返還)

  それなら 1945年8月15日、日本の無条件降伏にしたがい、第2次世界大戦
終結後、日本が略取した韓半島と「独島」は連合軍によりいかに韓国へ返還さ
れたのか?

ANS.
  1945年9月2日、日本が降伏文書に調印した後、東京に連合国最高司令部
(General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers: 略称G
HQ)が設置され日本統治を担当するようになり、連合国最高司令部はポツダ
ム宣言の規定を執行しはじめた。
  連合国側は即刻、韓半島は韓国(駐韓米軍政)に移管した。問題は日本領
土に規定した「本州・北海道・九州・四国と我々(連合国)が決定する諸小
島」中、隣接国家間に散らばっている小さな島について元の帰属国と日本のも
のとを区別するのに若干の時間がかかった。

  やっと数カ月の調査の末に、連合国最高司令部は1946年1月29日「連合国
最高司令部指令(SCAPIN: Supreme Command Allied Powers Instruction)第
677号」にて、若干の周辺地域を政治・行政上 日本から分離する覚書」を発表
して執行した。
  このSCAPIN 第677号の第3条にて「独島」(Liancourt Rocks,竹島)は日本
領土から分離、除外されたが、その部分は次のとおりである。

 「この指令の目的のために、日本とは、日本の主要4島(北海道、本州、九
州、四国)及び約1000の隣接諸小島を含むものと定義する。(1000の隣接諸小
島に)対馬諸島及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口之島を除く)を含
み、次の諸島を含まない。

(1)鬱陵島、リアンコールト岩(Liancourt Rocks; 独島、竹島)、済州島
(2)北緯30度以南の琉球(南西)諸島(口之島を含む)、伊豆、南方、小
  笠原及び火山(硫黄)群島ならびに大東諸島、沖之鳥島、南鳥島、中之鳥
  島を含む他の全ての外郭太平洋諸島
(3)クリル(千島)列島、歯舞諸島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を
  含む)及び色丹島などである」

  連合国最高司令部は、このSCAPIN 第677号を「日本の定義(the definition
of Japan)として表現した。
  SCAPIN 第677号 第3条で注目すべきは、(1)(2)(3)の集団分類である。(1)
の集団には鬱陵島、独島、済州島を順番に範疇化して入れたが、この集団は日
本から分離され韓国へ返還される島であることが鬱陵島と済州島から明らかで
ある。
  すなわち、連合国最高司令部は、1946年1月29日、SCAPIN 第677号で「独
島」(リアンコールト島、竹島)を本来の主人である韓国へ返還することに決
定し、日本から分離したのである。

  これは、連合国最高司令部が数カ月間にわたり調査した後に決定し公表し
たものであるが、連合国最高司令部は当時において国際法上の合法的な機関で
あったので、連合国最高司令部が「独島」を本来の主人である韓国(当時は米
軍政庁)へ返還し韓国領と決定したことは国際法上の効力をもつのである。こ
れは、継いでSCAPIN 第677号の付属地図にも克明に表示されている。
  1948年8月15日、大韓民国は政府樹立と同時に米軍政庁から韓半島と独島
などを引き継ぎ、これを韓国領とし、韓国の独島領有は1946年1月29日に国際
法上で合法的に再確認されのであり、1948年8月15日から同時に実効的支配を
ふたたびするようになったのである。

コメント:戦後の韓国政府による竹島=独島支配は あいまいに1952年ころから
始まるのではなく、韓国が米軍政庁の施政を引き継いだ 1948年から始まりま
した。この時、日本は占領軍統治下とはいえ、まがりなりにも政府が存在し外
務大臣もいたのですが、日本政府は韓国の竹島=独島支配に何ら異議の申し立
てを行いませんでした。





Q86.(SCAPIN の解釈)

  日本政府はその後、SCAPIN 第677号は連合国最高司令部の最終決定ではな
いので、この時点で「独島」(竹島)を日本から最終分離したとか、韓国に最
終返還したとかみることができないと抗議したが、本当にそうか?

ANS.
  日本政府は「独島領有権論争」を起した直後、1952年4月25日付で韓国政
府に送ってきた日本側口述書において、SCAPIN 第677号第6条「この指令のな
かのいかなる条項もポツダム宣言第8条に言及された諸小島の最終決定に関す
る連合国の政策を示すものではない」という条項をあげ、これが日本の領土を
最終的に規定したものではないと主張した。

  しかし、SCAPIN第677号にて強調されたのは、各国がそれぞれの国家利益
を追求する複雑微妙な連合国の利害関係のなかにあって他の連合国が異議を提
議する場合にそなえ、これが「最終的な決定」ではなく、必要なら修正するこ
とができる可能性を残したにすぎない。
  それなら、必要な修正を加えるときはどうするのか。SCAPIN 第677号第5
条で「この指令に含まれる“日本の定義(the definition of Japan)”は、そ
れに関する他の特定の指令がないかぎり、また本連合国最高司令部にて発する
他のあらゆる指令、覚書、命令に適用する」として、SCAPIN 第677号の日本領
土定義に修正を加える時には連合国最高司令部がかならず特定の別番号の
SCAPIN(連合国最高司令部指令)を発するものであり、そうでない限り
SCAPIN第677号の規定は「日本の定義」が未来にも適用されることを明白にした。

  つまり SCAPIN 第677号の規定を「独島」に適用すれば、第3条にて「独
島」を日本領から分離して鬱陵島や済州島とともに韓国領に返還したが、第5
条にて「独島」を日本領から分離して韓国領に返還したことに修正を加えよう
とする時はかならず連合国最高司令部が別番号の特定指令を発してこそ修正す
ることができるとして、第6条ではこのような(第5条の)前提下で「独島」を
日本領から分離して韓国へ返還するのは連合国政策の「最終的決定」ではない
とみることができると規定したのである。
  したがって「独島」を日本政府の主張のように日本領土に編入しようとす
れば、かならず連合国最高司令部が別の特定(したがって別番号の)SCAPIN
を発表して「韓国に返還した独島を今度は日本へ領土編入する」という要旨の
指令文が発表されれば成立するのである。




Q87.(SCAPIN 677のその後)

  その後、連合国最高司令部は SCAPIN 677号を修正して韓国領に返還した
「独島」を日本領へ返還するというような別の特定 SCAPINを発表したのか?

ANS.
  1946年1月29日、連合国最高司令部は SCAPIN 第677号を発表して「独島」
を日本から政治・行政上分離して韓国へ返還した後、1952年に解体されるまで
「独島」を日本領へ帰属させるような内容をもった別の特定 SCAPINを発表し
たことがない。
  したがって独島は国際法上において1946年1月29日 SCAPIN第677号により
韓国領に再確認され、今日まで国際法上の合法的な支配が継続されているので
ある。
  連合国最高司令部が「独島」に関連して発表した SCAPINがもうひとつあ
るが、その内容は大韓民国の独島領有をさらに保証するものであった。




Q88.(SACPIN 1033号)

  大韓民国の独島領有をさらに保証するもうひとつの SCAPINはどのような
ものか? また、それと SCAPIN第677号との関係はどのようなものか?

ANS.
  SCAPIN(連合国最高司令部指令)第1033号である。1946年6月22日、連合国
最高司令部は SCAPIN第1033号第3条にて「日本人の漁業および捕鯨業の許可区
域」(通称マッカーサーライン)を設定したが、その(b)項にて「今後、日本
人の船舶および乗務員は北緯37度15分、東経131度53分にあるリアンクール岩
(独島、竹島…原引用者)の12カイリ以内に接近できないし、また同島にいか
なる接近もできない」と規定して独島接近を厳格に禁止した。
  これは連合国最高司令部が「独島」とその領海、近接水域を韓国(当時は
米軍政庁)の領土、領海として再確認し、日本人が独島に接近するのはもちろ
んのこと、独島周辺12カイリの領海と近接区域にも入れないよう禁止し、明確
に「独島」が韓国領であることを繰りかえし再確認したのであった。

  このように国際法上の合法機関としての連合国最高司令部は SCAPIN第677
号と第1033号により「独島」が韓国(当時は米軍政庁)の領土であり日本領で
はないことを明確に決定し、再確認したものであった。
  そして 1948年8月15日、大韓民国政府が樹立されるや、大韓民国政府が米
軍政庁から独島をほかの韓半島領土とともに引きついで接収したのであった。
  したがって、大韓民国の独島領有は SCAPIN第677号と SCAPIN第1033号に
より国際法上からも「独島は韓国領」であることを明確に再確認したのであっ
た。

コメント1:マッカーサーラインは、1949年9月19日 SCAPIN 2046号で改訂さ
れた後、1952年4月25日、すなわち対日講和条約発効の3日前に廃止されました。
マッカーサーライン廃止に危機感をもった韓国の李承晩大統領は、廃止の3か
月前に同ラインをほぼ引き継ぐ形で平和線、通称「李ライン」の宣布を行いま
した。
<李ラインの経緯>

コメント2:米軍政庁から竹島=独島の引き継ぎに関しては下記に記します。
<韓国独立と竹島=独島対応>





Q89.(米軍演習場)

  このころ、米軍が「独島」を米空軍の演習場として使用したが、鬱陵島漁
夫を多数爆死させたことがあり、日本側は米空軍が独島を日本領と見なしたた
めに米空軍演習場として使用したものであると主張したが、そのような事実が
あるのか?

ANS.
  大韓民国政府が樹立される直前である1948年6月30日、アメリカ空軍機が
独島周辺で爆撃演習を実施したが、独島に出漁中であった韓国漁民30余名が犠
牲になる不祥事があった。
  しかるに、この時期は独島を含め韓半島が駐韓米軍政統治下にあったので
あり、決してこの事実が独島を日本領と見なしたとする傍証になるのではない。
日本側の主張はまったく不当なものである。
  大韓民国は、政府樹立後である1950年4月25日、アメリカ第5空軍にこれを
照会、抗議した。アメリカ第5空軍から同年5月4日付で「当時、独島とその近
辺における出漁が禁止された事実はなく、また独島は極東空軍の演習目標に
なっていなかった」という要旨の回答を受けとった。
  その後、韓国戦争期間中に独島が米・日合同委員会によりアメリカ空軍の
演習基地に選定されたという情報が韓国に入った。
  大韓民国政府は米空軍へこれに抗議したが、米国空軍司令官は1953年2月
27日付で「独島」はアメリカ空軍の演習地から除外されたという公式回答を大
韓民国政府に送ってきた。
  このような事実は、大韓民国政府が樹立した1948年8月15日以後「独島」
に対して主権を行使してアメリカ空軍司令部と抗議文書を交換したのであり、
アメリカ空軍司令部も「独島」を韓国領として認定してそれに回答し、承服し
たことをよく示すものである。




  • 最終更新:2010-03-11 15:32:13

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