愼鏞廈の戦後の動き 2


Q90.(対日講和条約)

  日本政府は、1951年9月8日、アメリカをはじめとする48か国の連合国と日
本が署名した「対日講和条約」第2条にて「日本は韓国の独立を承認して済州
島・巨文島・鬱陵島を含めた韓国に対するすべての権利・権原および請求権を
放棄する」と規定したが、この表記文において「独島」は含むように表示され
ていないので「独島」は日本領と主張しているということだが、この問題はど
うなのか?

ANS.
  まったく成立する余地はない。連合国側は、前にも説明したように、連合
国最高司令部が1946年1月29日 SCAPIN(連合国最高司令部指令)第677号によ
り「独島」を日本領土から除外して韓国へ返還し、第5条においてこの決定を
修正する時はかならず連合国(最高司令部)が他の特定の指令を出さなければ
ならないと明確にした。
  これを「独島」の場合に適用すれば、万一、連合国が SCAPIN第677号の決
定を修正し、たとえば「日本から除外して韓国へ返還した独島を修正して日本
へ付属させる」という「修正」を加えようとする時は、連合国側が他の特定の
指令を発するか、それに相当する明文規定をせねばならないのである。

  しかるに 1952年、連合国最高司令部が解体し、日本が再独立する時まで
他の特定の指令を発表しなかったので「独島」は依然として連合国側も韓国領
と認定し、国際法が保証する韓国領なのである。
  日本はこれをよく知っていたので、1951年「対日講和条約」草案作成時に
猛烈にロビー活動を展開し、一時は「独島」を日本領土に含めて明文規定を草
案にもるところまで成功したが、最終段階で連合国側がこれを削除し、他の特
定の SCAPINに該当する連合国側の明文規定による「修正」に失敗した。

  したがって、1951年 サンフランシスコにて締結した「対日講和条約」に
おいて「独島」を日本領土に含めるという内容の明文規定がないかぎり、連合
国側は「独島」を韓国領として認定したのであり、日本は国際法上「独島」に
対する領有権を主張することができない。
  したがって 1951年、連合国側の「対日講和条約」の条約文は連合国側が
独島を日本領と認定したのではなく、かえって反射的に SCAPIN第677号が有効
であり「独島」が韓国領であることを引きつづき認定したのである。

コメント:竹島=独島やクナシリ、エトロフ島などを政治上、行政上において
日本から切り離したSCAPIN 677号の規定は日本領土を最終決定したものではな
く、第5条にうたわれたように別な指令で処遇が明文規定されるまでの暫定措
置であった。
  その後、それらの島に関するかぎり明文規定を有する指令や条約は今日に
いたるまで皆無である。したがって、それらの島がサンフランシスコ条約で放
棄する島のリストに単に入っていないからといって、それらが政治上、行政上
において日本へ渡されたと解釈するのは困難である。対日講和条約では、条約
非調印国のソ連や韓国が現実に支配しているそれらの島について最終的な所属
をわざとあいまいにするために、それらの島について一切ふれなかったのであ
る。

  対日講和条約後、日本はこうした事情からクナシリやエトロフ島などが日
本へ返還されたと誤解するようなことはせず、そこへ巡視船を強行派遣するよ
うな行動はとらなかった。当然の理である。ところが竹島=独島の場合、日本
は1953年に巡視船を強行派遣し、そのため韓国から銃撃され追い返されている。
  この両者の違いは歴然としている。相手がソ連という大国の場合、日本は
理性を働かせたのか、あるいは猟犬におびえる小鳥のようにすくんで動けな
かったのか、何の行動も起さなかった。ところが相手が韓国となると、相手を
みくびってか居丈高な行動に走ったのである。この当時、日本政府の行動はダ
ブルスタンダードであった。
<日本国との平和条約>




Q91.(講和条約草案の推移)

  連合国側は、1946年に連合国最高司令部がSCAPIN第677号で「独島」を韓
国領と判定したのに、なぜ1951年の「対日講和条約」では「独島」が抜け落ち
たのか?

ANS.
  初めは「独島」が含まれていた。アメリカが主導して1947年3月20日付で
成案になった第1次草案では「日本は韓国(韓半島…原引用者)の済州島、巨
文島、鬱陵島、独島(リアンクール岩、竹島)を含め、韓国沿岸のすべての小
さな島に対する権利および権原を放棄する」として、そこには明確に「独島」
が含まれていた。
  そして第2次草案(1947年8月5日 成案)、第3次草案(1948年1月2日、成
案)までは「独島」が明文で記録され含まれていた。しかし第6次草案(1949
年12月29日 成案)からは「独島」の名前が抜けていた。

コメント:対日講和条約は、正式名「日本国との平和条約」で、別名「サンフ
ランシスコ条約」「単独講和条約」とも呼ばれる。
<日本国との平和条約>





Q92.(シーボルトのロビー活動)

  どのようにして、連合国側の「対日講和条約」第5次草案までは「独島」
の名があったのに、第6次草案からは「独島」の名称が抜けおちたのか?

ANS.
  日本側の猛烈なロビー活動があったためである。日本側は連合国の「対日
講和条約」第5次草案の情報を入手するや、当時日本政府の顧問であったシー
ボルト(Sebald)をたてて猛烈にロビー活動をした。
 「対日講和条約」にて独島を韓国領から除外し、日本領に含めるよう明文規
定を入れてほしいというものであった。これは連合国(最高司令部)が1946年
1月29日に発したSCAPIN第677号の「修正」を要求したロビー活動であった。
  シーボルトは1949年11月14日、アメリカ国務省に「リアンコールト岩(独
島)に対する再考」を要請する電報を打った。シーボルトはついで書面で次の
ような意見書を提出した。

 「日本がかつて領有していた、韓国側に位置した諸島の処理に関連して、リ
アンコールト列岩(独島、竹島)を第3条にて日本に属するものとして明示す
ることを建議する。
  この島にたいする日本の主張は古く、正当と思われる。この島が韓国の沿
岸から離れている島とみるのは困難である。安全保障の側面にてこの島に気象
とレーダー基地を設置するのはアメリカの国家利益の側面から考慮されうる」

  このシーボルトの意見書で注目されるのは、独島を連合国の「対日講和条
約」第3条にて日本領に属すると明記することを強力に要請しただけでなく、
これを貫徹するために狡猾にも独島を日本領に編入すれば、この島に米軍の気
象およびレーダー基地を設置するのがアメリカの国家利益にマッチすると強調
し、アメリカの政治家たちが重視する国家利益に訴えた事実である。

  これはもちろん独島を日本領に編入しようとする日本人ロビーストたちが
背後で教唆した狡猾性とみることができる。
  シーボルトのロビー活動はすぐに効果を発揮し、アメリカ国務省は連合国
の「対日講和条約」第6次草案(1946年1月29日)第3条の日本領を表示した条
項に「独島」を日本領に含めた。
  そしてその注釈は「独島(竹島)は1905年、日本により正式に明白に韓国
からの抗議を受けることなく領土と主張され、島根県の隠岐支庁管轄下におか
れた」と説明した。
  第7次草案(1951年3月23日成案)には、独島(竹島)が日本領に含まれて
表示され、韓国領土条項には巧妙な方法で目につかないように消された。
  アメリカに向けられた日本側ロビー活動の影響で、連合国の「対日講和条
約」において韓国領である独島は日本領に含められ表記されるという切迫した
危険に瀕したのであった。

コメント:日本、韓国ともに竹島=独島が自国領であるという両国の主張は、
最終的に対日講和条約にいずれも反映されず、竹島=独島は一言も書かれない
「あいまい決着」になりました。あいまい決着は北方4島も同様です。





Q93.(竹島=独島の最終決着)

  連合国の「対日本講和条約」第6-9次草案にて「独島」を日本領へ組み込
もうとする日本側の活動と、これに同調したアメリカ人の活動はどのように阻
止されたのか? 当時の大韓民国外務部はこれを阻止するために積極的な活動
をしたのか?

ANS.
  他の連合国がアメリカの「修正案」に同調しなかったために、日本のロ
ビー活動で「独島」を日本領に入れて表記しようとしたアメリカ(および日
本)の企図は阻止された。
  連合国の「対日講和条約」はアメリカだけでなく、他の連合国も草案を作
成することができるし、連合国48か国の同意署名を受けてこそ成立するのであ
る。

  しかし、第8次草案(独島を日本領に「修正」表示)をみて、オーストラ
リアおよびイギリスがこれに対して質問すると、アメリカは「独島を日本領と
して解釈する」との答弁書を送ったが、両国はアメリカの「修正」に同意する
文書を送ってこなかった。
  またニュージーランドとイギリスは独島を韓国領とみる見解を婉曲的に示
し、日本周辺にあるいかなる島も主権紛争の余地を残してはならないと強調し、
アメリカの「修正」提案と説明に同意しなかった。それのみならず、イギリス
は独自の「対日講和条約」草案を何度も作成した。

  そうして結局、アメリカとイギリスの合同草案(1951年5月3日成案)にて
独島を日本領の条項にも、また韓国領の条項にも入れず、「独島」という名を
連合国「対日講和条約」すべてからことごとく削除した草案を作成し、合意署
名したのである。この間、大韓民国外務部は関連情報を得られなかったためか
「独島」領有権に対しては活動したことがなかった。

  しかし、SCAPIN第677号第5項にしたがい、「修正」は独島を日本領としな
いかぎり問題が発生する。「独島」の名を日本領に入れて明記できなければ、
国際法上「独島」はSCAPIN第677号にしたがい、依然として韓国領と再確認で
きるのである。
  日本のロビー活動が失敗し、イギリス、オーストラリア、ニュージーラン
ドがアメリカの「修正案」に対する同意を保留したのは、大韓民国の独島領有
に反射利益を与えたのであった。

  それだけでなく1948年8月15日、大韓民国は独立国家になり、同じ年の12
月12日には国際連合(UN)により韓半島の唯一の合法政府として承認された
ので、国際法上において大韓民国は合法的にすでに独島を領有していたことに
なる。
  しかし大韓民国は、独島に対する外務部の消極的政策と無為無能のために、
独島を韓国領と記録した連合国側の「対日講和条約」草案と第1-5次草案を最
後まで守護できなかった。へたをしたら、当時の外務部の消極的政策と無為無
能により独島を奪われかねなかったのであった。

コメント:対日講和条約において、竹島=独島を韓国領に組み入れる企図は韓
国外務部の無為無能により失敗に帰した。一方、竹島=独島を日本領に組み入
れようとする日本やアメリカの企図は、イギリスやオーストラリア、ニュー
ジーランドなどの同意が得られず、やはり失敗した。





Q94.(返還領土の基点)

  1951年、日本政府は連合国との「対日講和条約」にて日本が韓国に返した
領土は1910年8月のいわゆる「併合条約」で占領した領土であり、それ以前の
1905年に領土編入した所は含まれていないと主張しているとか・・・。

ANS.まったく成り立たない主張である。連合国の「対日講和条約」は前に
もふれたとおり、1894-95年に奪った台湾と澎湖島を中国に返還し、独島より
10か月後である1905年11月に奪った遼東半島を中国に、サハリンをロシアに返
したのを再確認した。
  論理的にみたとき、万一 1905年2月「独島」を奪う10年前である1895年に
日本が「暴力と野欲で略取」した韓国の島があるなら「独島」だけでなく、
1895年に略取した島も返還されるようになっていた。
  したがって、1905年2月に「日本が暴力と野欲で略取」した独島は当然に
韓国へ返されるべきで、それは1946年1月29日 SCAPIN 第677号で実現されたの
である。





Q95.(国際司法裁判所)

  日本政府は、国際法が「独島」を「韓国領」に再確認したにもかかわらず、
1952年1月29日「独島」(竹島)を日本領と主張し「領有権論争」を仕掛けて
きた。韓国政府が日本の主張を一蹴するや、日本政府は1954年9月「独島問
題」をハーグにある「国際司法裁判所」に提訴したそうだが、事実か? 日本
は独島問題を国際司法裁判所に提訴すれば勝算があると判断したのか?

ANS.
  日本政府が1952年1月28日「独島領有権論争」を始めたのは、日本政府が
大韓民国国民と韓国政府に挑戦した重大な失策であった。
  日本政府は外交文書上の論争を継続してきたが、韓国政府へ送った1954年
9月25日付の口述書において「独島」(竹島)問題は国際法上の基本原理に関
する解釈を含む「領有権論争」であるので「紛争の平和的解決」のために国際
司法裁判所にその最終決定を委任しようと提案してきた。
  もちろんこの時の日本政府は国際司法裁判所に「独島領有権紛争」を解決
してほしいと韓国を提訴して委任した。
  国際司法裁判所は国内法とはちがって、相手国が委任を承諾して応訴しな
ければ案件が成立しない。大韓民国政府は1954年10月28日付で日本政府に送っ
た口述書において、大韓民国が「独島領有権」をもっているのは論議の余地が
ないとして日本政府の提議を断固として拒否し、応訴しなかった。
  韓国政府は当時、日本政府があたかも独島領有権をもっているかのような
前提に立ち、存在しもしない「独島領有権紛争」を作りだし、たとえ一時でも
韓国と同島の立場にたとうとしたのであると批判した。

  当時、大韓民国政府は「独島」は「鬱陵島」の付属島嶼であり、「鬱陵
島」が韓国領であるのと同様「独島」も韓国領であり、この事実は SCAPIN 第
677号が保障してくれていると判断した。また、日本が「独島」を日本領と主
張してきたのは「論争」のための「独島領有権論争」であり、「独島領有権
(領土)紛争」は存在しないとする断固たる立場であった。韓国政府のこうし
た立場は相当に正確なものであった。

 「国際法上の合法的機構である連合国最高司令部」が SCAPIN 第677号です
でに1946年に「独島」を鬱陵島とともに日本領でないと判断し、日本領から除
外し、韓国に返還したので、国際法上「独島」と鬱陵島は明白に韓国領であっ
た。
  したがって、日本が独島や鬱陵島を日本領であるといくら強力に主張し、
国際司法裁判所に提訴しても韓国はこれに応訴する理由がまったくなかった。

  現在、国際司法裁判所の判事15人の中で一人は日本人判事である。日本政
府は国際司法裁判所に運営費用の相当な分担金を出しており、ロビー活動に関
するかぎり、世界最強であるとの自信がある。
  そうであるから、日本が「独島」問題を国際司法裁判所にもっていきさえ
すれば、「真実」が大韓民国側にあるにせよ、最後の勝利は日本のものである
と作り出すことができるという自信をもったのであると観察される。


半月城のコメント:
  1950年代は、竹島=独島をめぐる多くの真実がまだ公になっていない段階
だったので、日本政府は国際司法裁判所で勝てるかも知れないと本気で思いこ
んでいたようです。

  しかし、もし現段階で国際司法裁判で審議されるとなると、一番困るのは
日本の外務省ではないでしょうか。それは外務省の情報隠しが満天下にさらさ
れるためです。
  たとえば、明治政府が竹島=独島を朝鮮との関係で放棄した事実です。あ
るいは「竹島一件」の時、江戸幕府は松島(竹島=独島)の存在すら知らな
かった事実です。はたまた、竹島=独島は、実は1905年に「無主地」と断定し
て「領土編入」したのであり、決して「固有領土」とは考えていなかった事実
などです。
  これらは、国立国会図書館の塚本孝氏のように、竹島=独島を日本領と考
える日本の学者すら認めている事実です。
  そのうえ、たとえ「固有領土」であったとしても、北方4島のように
SCAPIN 677号が国際法上の壁になり、ロシアなどの既得統治権をくつがえすの
は困難なのが現実です。
  そうした状況もあってか、外務省は国際司法裁判所への付託を最近はまっ
たく口にしていないようです。ましてや、北方4島に関しては国際司法裁判所
への付託は当初からおくびにも出していません。ダブルスタンダードでしょうか。
  今や、情報隠しやウソまみれの外務省にとって、裁判は最も避けたい解決
手段ではないでしょうか。




  • 最終更新:2010-03-11 15:34:26

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