所謂三峯島捜覧問題だ

1470-12-11 三峰島に逃亡犯がいる

成宗 8卷, 1年(1470 庚寅 (成化) 6年) 12月 11日(甲寅)

 下書永安道觀察使 李繼孫 曰:
 今悉所啓
 其投往三峯島者 逃賦背國
               其三峯島に投往する者は、賦を逃れた背國者である。
 情犯甚惡 卿宜探問以啓
               その情犯は甚しく惡い。卿が宜しく探問する。
 以啓
 但今風高海惡 不可 以本道小舫輕赴 卿其詳審施行
               但、今は風高く海惡い ので不可
               本道の小船が軽く赴けたら 卿が其を詳く審査する。


1472-02-03 三峯島捜探節目を立案する

成宗 15卷, 3年(1472 壬辰 / ? ??(成化) 8年)2月 3日(庚午)

兵曹啓 兵曹が啓する
頃承傳敎 江原道海中有三峯島 來壬辰年春 當遣人求之 其節目商議以啓
          前に伝敎を受けた。江原道の海中に三峯島がある。
          壬辰年の春に。當遣人求之。その結果を申し上げる。
今將合行事件 條?以聞
          実施条項は次のとおり。
  一 用哨馬船四隻 各定軍人四十名 擇本道軍士有武才者及自募人十七名充定
          一 哨馬船を四隻用意する。各定軍人四十名。擇
            本道の軍士・武才のある者及自募人17名を充定する。
  一 蒿工 擇 本道水軍 行船慣熟者 量數分定。
          一 蒿工は、本道水軍から行船の慣熟者を選定する。
  一 朝臣中 擇 才兼文武者一員 差敬差官。
          一 朝臣中から才兼文武者を1名選び 司令官にする。
  一 形名及軍器 火炮 以本道三陟 蔚珍 平海等 官所儲擇給
          一 形名・軍器・火炮は、三陟・蔚珍・平海等の官所から支給する。
  一 船上軍糧 令本道觀察使 計人數?往返日月 以蔚珍倉穀 給之
         一 船上の軍糧は、令 本道觀察使が、人数と往復日数を計算して蔚珍倉穀から支給する。
  一 軍士能搜得有功勞者 令敬差官 等第以啓
         一 軍士が搜得に功勞すれば、敬差官から表彰する。
  一 待風和 四月晦時 發船
         一 風が和むのを待ち、四月晦時に船を発する。
  一 富寧人 金漢京 知三峯島所在 ?令入送
         一 富寧人の金漢京が、三峯島の所在を知っているから一緒に行く。
從之


1472-06-12 敬差官は失敗、司直は武陵島に到着

成宗 19卷, 3年(1472 壬辰 / ? ??(成化) 8年) 6月 12日(丁丑)

江原道觀察使李克?馳啓曰
  三峯島敬差官 朴宗元與所領軍士 分乘四船
         三峯島敬差官の朴宗元が、与えた軍士を4船に分乘し
  去五月二十八日 自蔚珍浦發去 ?遇大風四散 朴宗元之船 東北去
         5月28日、蔚珍浦を発し、大風に遭い四散した。朴宗元の船は東北に去る。
  二十九日平明 向東南 望見武陵島 可十五里
          29日に東南に行き、武陵島を望見する。その距離は15里
  復遇大風 船纜絶 漂流大洋中 不知東西者七晝夜
          復び大風に遭う。船纜絶。大洋中を漂流。7昼夜の間東西を不知
  本月初六日午時 到杆城郡淸簡津
          本月初六日午時に杆城郡の淸簡津に戻った。

  司直 郭永江 等三船 去五月二十九日 至武陵島
          司直の郭永江等の3船は、5月29日、武陵島に至る。
  留三日 搜索島中 不見居人 只有舊家址而已
          留ること3日。島中を搜索した。人の姿はない。只廃墟があるのみ。
  島中有竹 其大異常 永江等取數竿載船 發回
          島には異常に大きい竹があった。永江等は数竿を船に載せ帰った。
  本月初六日 至江陵羽溪縣梧耳津
          本月6日、江陵の羽溪縣の梧耳津に戻った。

  今風氣漸高 海波險惡 更遣爲難
          今、風が高く、海波は険悪、更なる派遣は難。
  放遣本道軍士 京軍士分運上送 何如?
          本道軍士と京軍士を分けて送りたいが、如何。


1472-08-12 成宗 三峯島を捜索する事の条目を議論

成宗 21卷, 3年(1472 壬辰 / ? ??(成化) 8年)8月 12日(丙子)

前此 院相鄭麟趾等議三峯島搜覓事目云
          院相の鄭麟趾等が三峯島を捜索する事の条目を議論
  令 永安道觀察使 預擇閑散有職品官可使者 諸事備?,
          永安道觀察使に擇閑散有職品官可使者を預け、諸事を準備させる。
  待明年春和 以金漢京爲指路尋覓
          明年の春和を待って、金漢京をして派遣する。
至是 兵曹據此啓
          兵曹が啓する。
  一 依今年 三峯島搜覓時例 哨麻船四隻?船軍人四十名
          一 前回の三峯島搜覓時例に拠って、哨麻船四隻と船に軍人四十名
    抄本道吉城以北諸邑軍士有武才者 充差
            本道・吉城以北の諸邑軍士で武才ある者を充差する。
  一 令 本道觀察使 無問公私船 擇不腐朽牢實者 修補以待
          一 本道觀察使に船の修復を命ずる。
  一 四船蒿工 擇本道諸浦船軍慣水者 量數分差
          一 四船に乗せる水夫を準備しておけ。
  一 道?有職 有才略人 預先揀擇領率 如有自募人?許送
          一 官人から才略人を選び、自募する人を受け付ける。
  一 往還一朔糧 令 本道觀察使 計口題給
          一 往還の食料を計算し準備する。
  一 搜探後論賞節次 臨時議定
          一 搜探後の論賞は臨時にこれを定める。
從之


1473-01-09 金漢京の言はソウルで信用なし

成宗 26卷, 4年(1473 癸巳 (成化) 9年)1月 9日(庚子)

諭永安道觀察使 鄭蘭宗 曰
 金漢京言
          金漢京が言うには
   在慶興 遇淸明日 可望見三峯島
          咸鏡北道の慶興から、淸明な日なら三峯島が望見できる。
   自會寧向東舟行 七晝夜而到 向北行四晝夜而還
          會寧から東に舟行すれば、七昼夜で到る。北に四昼夜で還る。
   前年 遣人往尋茂陵島
          前年、茂陵島に人を遣した。
   自蔚珍向東舟行 一晝夜而到 西行三晝夜而還
          蔚珍から東に舟行し一昼夜で到り、西に三昼夜で還る。
 其所言地勢 有可疑者
          其の言う地勢には、疑う所がある。
 世傳 茂陵島之北 有蓼島 無一人往還者 是亦可疑
          茂陵島の北には蓼島があるが、一人の往還者もない。疑うに足る。
 卿更 訪問沿海古老舟人 詳究以啓。
          卿が、沿海の古老舟人から詳究し以って啓すべき
 海路險惡 今若遣人尋求 宜募願行者
          海路が險惡で、今、若し人を遣すなら願行者の募集が必要である。
 人言 邊民逃賦往投 不可置而不問
         賦を逃げて往む民を許すか
 亦不可以難信之言 ?險冒危
         信じ難い言を信じて、冒険をするか
 或致傾敗
         どっちにしますか。
 卿其審情度勢以啓
         卿は、いま少し情勢を調査の上、以って啓したい。


1476-06-22 金漢京は三峯島に至れず

成宗 68卷, 7年(1476 丙申 / ? ??(成化) 12年)6月 22日(癸巳)

下書永安道觀察使李克均曰
今見卿啓
  知 鏡城金漢京等二人 辛卯五月漂泊三峯島 與島人相接
         知 鏡城の金漢京等二人が、1471年5月に
         三峯島に漂泊し、島人に相接した。
  又於乙未五月 漢京等六人向此島 距七八里許 望見阻風 竟不得達。
         又、於1475年5月に、金漢京等六人が此島に向かい
         距離が七八里位の所で、望見したが風に阻まれ到達できなかった。
  此言雖不可信 亦或非妄 今宜別遣壯健可信人三人同漢京等 入送搜覓
         此言は信じがたい。もし偽りでないなら、
         別に壯健で信用できる三人を、漢京等に同行させて、確認させるべき。


1476-10-22 金自周は白衣の30余人を見た

成宗 72卷, 7年(1476 丙申 / ? ??(成化) 12年)10月 22日(壬辰)

永安道觀察使李克均馳啓
 永興人金自周言 往見三峯島 且圖其形 送自周以進
         永興人の金自周が言うには、三峯島を往見した。且、其形を図にした。
         金自周に問うて下さい。
命問之
自周對曰
  於鏡城海濱乘舟 行四晝三夜 見島屹然
         鏡城の海濱で舟に乗り、四昼三夜行くと、その島が見える。
  而有人三十餘 列立島口 有烟氣
         30余人が、列立島の入口に立っていた。烟氣有り。
  其人衣白 形貌遠不能詳 然其大概乃朝鮮人也 懼見執 不能進也
         其人の衣は白。顔形は遠くて判らない。
         大概は朝鮮人である。懼見執なので進めなかった。
賜襦衣二領
         襦衣2領を賜った。


1476-10-27 金自周は見た、島の北に三石列立

成宗 72卷, 7年(1476 丙申 / ? ??(成化) 12年) 10月 27日(丁酉)

兵曹啓
 永興人金自周供云              永興郡=北朝鮮咸鏡南道金野郡の旧名
  本道觀察使 以三峯島尋覓事
         本道觀察使に三峯島を尋覓させる事。
  遣自周 及宋永老 與前日往還金興 金漢京 李吾乙亡等十二人 給麻?船五隻入送
         金自周・宋永老・金興・金漢京・李吾乙亡等12人に、船五隻を与えた。
  去九月十六日 於鏡城地瓮仇未發船向島  16日出発した。
  同日 到宿富寧 地靑巖         同日、富寧着
  十七日 到宿會寧 地加隣串       17日、會寧着
  十八日 到宿慶源 地末應大       18日、慶源着
  二十五日 西距島七八里許 到泊望見
         25日、島の西78里に至り望見した。
  則於島北有三石列立
         島の北には三石が列立し、
  次小島 次巖石列立 次中島 中島之西又有小島
         次に小島、次に巌石が列立し、次に中島、その西に島がある。
  皆海水通流
         みな海水が通じて流れている。
  亦於海島之間 有如人形別立者三十
         又、海と島の間に人影が立っており、その数は30。
  因疑懼不得直到 畫島形而來
         恐ろしくて島に近づけない。島の形を絵にして帰った。
臣等謂
  往年 朴宗元由 江原道發船 遭風不至而還
         往年、朴宗元が、江原道から船を出したが、風で至らず還る。
  今漢京等 發船於鏡城瓮仇未 再由此路出入 至畫島形而來
         今、漢京等が、鏡城を再び発し、島形を絵にした。
  今若更往 可以尋覓
         今なら、着岸可能です。
  請 於明年四月風和時 選有文武才者一人入送
         明年四月の風が和の時、文武才を有する者を選んで送るべきです。
從之

  • 最終更新:2009-03-03 07:29:13

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