朝鮮国交際始末内探書  猛


 半月城さんの「明治政府の竹島=独島認識」は次にあります。

  明示初年、『朝鮮国交際始末内探書』なるものが存在し、そのなかに「竹島松島朝鮮付属に相成候始末」とあり、続けて「此儀は松島は竹島の隣島にて松島の儀に付是迄掲載せし書留も無之竹島の儀に付ては元禄度後は暫くの間朝鮮より居留の為差遣し置候処当時は以前の如く無人と相成竹木又は竹より太き葭を産し人參等自然に生し其余漁産も相応に有之趣相聞へ候事・・・・ 」となっていました。
  半月城さんは、「この報告書からわかるように、外務省も竹島・松島は元禄期以降に朝鮮領となったと認識していたのである。この認識は、外務省から朝鮮内探の報告を受けた太政官も同様であったと思われる。」と言われます。

  しかし、この件に関する本掲示板の議論は、2003/12/ 7に「獨島問答Q41」(No.2685)を投稿される事により始まりました。ahirutousagi2さんの質問という形で展開しています。概要は以下のとおりです。

  シンヨンハ氏は「そのひとつに「竹島(鬱陵島)と松島(獨島)が朝鮮付属になっている始末」を内探せよとの指示事項があった。」と説明されました。ahirutousagi2さんは「そういう指示事項はどこに出ているのでしょうか。14項目の指令に関する伺い(明治2年)は見ましたが、この部分は見当たりません。私が見落としているのでしょうか。」と疑問を呈され、半月城さんは、「指示した記録文書は今のところ見当たらないようです。」と回答されます。ahirutousagi2さんは「竹島松島朝鮮附属に相成候始末という題目ばかりが注目されますが、そもそもこの題目は14種の各種長文の指令についてそれぞれ短く項目ごとに題名をつけて報告したもののうちの一つですから、この一つの短い題名だけを取り上げて政府の考えを推測するには無理があり、指令書きがないと内容についてはなんともいえないように思われます。」と結論されています。


  以下は、私見です。
  命令が、「竹島(鬱陵島)と松島(獨島)が朝鮮付属になっている始末を内探せよ」ではなく、「鬱陵島が朝鮮付属になっている始末を内探せよ」であった場合、「松島の儀に付是迄掲載せし書留も無」により、内探者は明治政府の松島認識から解放され、朝鮮における「松島」の認識を内探し報告したと読み取れます。江戸幕府にしろ明治政府にしろ、リャンコ島を朝鮮領と考えた痕跡が皆無なのですから、この解には一理あると考えます。
  では、朝鮮における「松島」認識はどの様なものであったのでしょうか。明治初年の認識は史料がありません。残っているのは、『高宗実録』にある鬱陵島検察です。この内容は、半月城さんが、No.1547以降に詳説されています。半月城さんは「それを整理すると下記のようになります。」と言われ、検察前の整理をしています。
    王(3島認識)、鬱陵島(通称)=鬱陵島(本島)+芋山島+松竹島
    李(マクロ的に2島、ミクロ的に3島認識)、鬱陵島=芋山島、松竹島=松島+竹島
  この認識を元に、李奎遠は鬱陵島を検察し、松島は日本領と描かれた標識を発見しますが、日本人が「鬱陵島=松島」という認識を示していることに違和感を覚えませんでした。又、「晴れた日に高いところに登って遠くを眺めると千里を窺うことができたが、ひとかけらの石も一握りの土もなかった。」と検分し、リャンコ島が松島であることを否定しました。
  この様に、1882年における朝鮮の松島認識は、鬱陵島に接する小島というものでした。この認識は、明治初年の内探者が得た情報と同じものであると考えられます。
  すると、「松島朝鮮付属に相成候」とは、鬱陵島に接する小島は朝鮮国付属と彼国は理解しています。という報告なのです。

  • 最終更新:2009-02-28 14:56:08

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