朴世堂の『鬱陵島』 下條正男

実事求是 〜日韓のトゲ、竹島問題を考える〜
第1回 朴世堂の『鬱陵島』


 12月4日付の朝鮮日報は、朴世堂の「欝陵島」を根拠に「于山島はやはり独島であった」と報じた。この報道は「欝陵島」を分析した、韓国海洋水産開発院の柳美林博士の見解を反映したものである。
 だが朴世堂の「欝陵島」は、『東国輿地勝覧』の記事に、文禄の役で捕虜となった僧侶の目撃談を加筆したもので、于山島を竹島(独島)とした事実はない。僧侶は丙午(1606年)の年、日本船で朝鮮に送還され、欝陵島を経由して半日で慶尚道の寧海に着岸していた。

 朴世堂が注目したのは、欝陵島から寧海までの所要時間である。当時、朝鮮では、朝鮮半島から欝陵島までの航程は二日とされていた。それを僧侶は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。

 そこで朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである。その「欝陵島」で重要なのは、『世宗実録地理志』が「二島相去ること遠からず(于山島と欝陵島は、互いに離れていない)」とする部分を、朴世堂が「蓋し二島此を去ること甚だしくは遠からず(寧海からはそれ程遠くはない)」と書き直し、于山島と欝陵島の二島は、寧海からそれ程遠くない距離にあるとした事実にある。

 日韓はこれまで、この「二島相去ること遠からず」の解釈で争ってきた。韓国側は「二島相去ること遠からず」に次いで「望み見るべし」の一文があるため、欝陵島から竹島が「見える」と読み、欝陵島から竹島が見えることが、竹島を韓国領とする証拠としてきた。

 だが朴世堂の「欝陵島」では、「(于山島と欝陵島の)二島、寧海を去ること甚だしくは遠からず」とし、「望み見るべし」も寧海から見た于山島と欝陵島のことと解釈している。
にもかかわらず柳美林氏は、朴世堂の「蓋二島此(寧海)を去ること甚だしくは遠からず」を、「およそ二つの島(欝陵島と于山島)はそれほど離れていない」と読み誤った。柳美林氏は「二島此を去ること」の「此」が寧海である事実を無視し、旧来の説を繰り返したのである。これは故意というより、漢文が読めないための誤謬である。

 朴世堂の欝陵島に対する描写は、「風浪息めば則ち尋常見るべし」とし、欝陵島から竹邊串(蔚珍県)に黄雀が群飛するとしたなど、詳細である。この知識は、朴世堂が二十歳の時、仲兄の朴世堅が歙谷県令として赴任した際、共に歙谷に下っていたことによる。歙谷県は欝陵島を管轄する蔚珍県とは同じ江原道に属し、海に面しているからだ。

 朝鮮日報の記事では、梨花女子大の碩学教授である慎■(かねへんに庸)廈氏が、「独島が我が領土であることを明確にする極めて重要な資料」とコメントしているが、朴世堂の「欝陵島」は、竹島が韓国領でなかったことを実証する、きわめて重要な文献だったのである。

 竹島問題が解決しないのは、韓国側があれこれと主張し、日本側が沈黙してきたからである。まして文献が読めていない状況で、日本の侵略を強調する論拠としてきた。だが実態はお粗末である。日本は今、その事実を明らかにし、当然の権利としての主張をする時にきている。

(下條 正男)

2007年12月25日掲載

  • 最終更新:2009-05-22 16:32:28

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