石島の名称上考察を通じる立証
石島をハングルで 解けば 'ドルソム'だ. ドルソムの辞書的な意味は "石が多い島"を指称するのに,普通このような島は 別に役に立たない島が大部分だ.韓国ではこんなに特別に偽名(島名)を 付与する価値がないドルトソングイの小さな島を 'ドルソム'という一般名詞として 指称して来た.
独島の韓国歴史の中固有名称は '傘も(于山島)'だ.この傘島という 名称が 19世紀末鬱陵島開拓を筆頭で,他地人たちが鬱陵島に大挙流入されながら彼らは 石が多い島である 'ドルソム' 方言で 'ドックソム'と称したし,特に 大韓帝国勅令第41号でこんな鬱陵島現地人の呼称を反映して '石島' すなわち 'ドルソム(ドックソム)'と記述したのだ.しかし相変らずソウルの識者層は 昔の書籍や地図に根拠して独島を傘島と称する場合が多かった. 1907年張志淵(張志淵)が著わした大韓帝国の 教科暑中仮装(家長) 科学的にその内容を構成したと評価されて,一番多い部首が発行された 地理教科書大韓真摯だ( 大韓新地志) 坤 43ページで "于山島は 其東南に(鬱陵島東南の方に) 在ハニだと" という記録はその恨み事例だ.
近代鬱陵島には初期移住民 中全羅道南海岸出身 人々が多かった.高宗実録高宗 19年(1882年) 6月 5日(己未)條に,鬱陵島探査を終えて帰って来た李堰怨が高宗皇帝に 鬱陵島には全羅道人々が一番多かったと報告する部分が出る.
教曰 吾邦人多入去 采薬造船乎.〓遠曰 湖南人最多 . 全為造船採〓採鰒 其外他道人 皆以采薬為主矣.
(高宗が) 下校するのを, 我が国の人がたくさん入って行って薬剤もあかして船も作るか? と言ったら李堰怨が申し上げるのを,"湖南(湖南) 人々が制である多かったです . 全部船を作るとかわかめと転覆を取ることをしたし その外の他の道(道)の人々は皆薬剤をあかす事を 主としました." と言った.
李堰怨の調査※によれば,鬱陵島に ある内陸である数は 182
192人に達した.この中全羅南道が一番多い 115人だったし,次が江原道ピョングヘインが 14人,慶尚道京主人が 12人,京畿道 坡州人が 1人だったし,声明(名前)·出身地域不明の人 4,50人が あった.これらは主に船を作る事(造船)をしたし(126人) その以外 わかめ採取薬草採取に携わったが,春に鬱陵島へ来て木を切って船を作るとか,わかめを取って肉を雑高 出てまた内陸に帰った. 朝鮮の長年の鬱陵島公道政策にもかかわらず鬱陵島を生の基盤で していた朝鮮人がかなり多い数存在したことを分かる.
下表は李堰怨が 鬱陵島検察をしながら会うとか周辺人たちから居住するという事実を 靴で確認した人と彼らの作業内容だ. 李堰怨は鬱陵島で人がゴズハルだけ所を隅隅まで実体調査(実査)したので当時 この人員以外鬱陵道人は存在しなかったと考えられる.
かけてす
代表者/関連者
代表者の出身者(元々 居住地)
作業内容
会った場所/現在地名
4月 30日
金載根(金載謹)/格調を(櫓だね, 船人) 23人(24人)
全羅道フングヤング(興海 日記専門: 興陽) 三道(三島)
造船採〓(お腹乾燥及び わかめ採取)
小黄土欧米(小黄土邱尾)/ハックポ
5月 2日
催性で(崔聖瑞)/格調を 13人(14人)
江原道評して(平海 ; 現慶尚道)
造船(お腹乾燥)
大黄土欧米(大黄土邱尾)/台霞
全書な(全瑞日)
慶尚道涵養(咸陽)
?
小黄土欧米(小黄土邱尾)/ハックポ
競走人 7人
慶尚道慶州(慶州)
採薬(薬草採取)
大黄土欧米(大黄土邱尾)/台霞
連日人 2人
慶尚道連日(延日)
伐烟竹(煙竹採取)
大黄土欧米(大黄土邱尾)/台霞
5月 3日
イギョングチル(李敬七)/格調を 20人(21人)
全羅道落雁(楽安)
造船(お腹乾燥)
倭船菖蒲(倭船艙浦)/天賦(天府)
キム・グンソ(金謹瑞)/格調を 19人(20人)
全羅道フングヤング(興陽) 初度(草島)
造船(お腹乾燥)
倭船菖蒲(倭船艙浦)/天賦(天府)
朴騎手(朴基秀)
慶尚道大邱(大邱)
?
ズングボング(中峰)/?
声明(名前)未詳 4
50人
?
採薬(薬草採取)
ズングボング(中峰)/?
征夷号(鄭二〓)
京畿道坡州(坡州)
薬商(薬草上な)
ズングボング(中峰) 山腹/?
5月 4日
ゾンソックギュ(全錫〓)
慶尚道涵養(咸陽)
採薬(薬草採取)
聖人峯で東に 10里落ちた地点
5月 5日
ギムネオン(金乃彦)/格調を 12人(13人)
全羅道フングヤング(興陽) 初度(草島)
造船
薪G-4(長斫支浦)/使動
5月 10日
変更化(卞敬化)/格調を 13人(14人)
全羅道フングヤング(興陽) 三道(三島)
採〓(わかめ採取)
道方庁浦口/ドドング
ギムネユン(金乃允)/格調を 22人(23人)
全羅道フングヤング(興陽) 初度(草島)
造船
トンググミ(桶邱尾)/トンググミ
※ 地理学研究 第40冊 2号,2006 (pp.213
228)'李堰怨の鬱陵島検察日記に現われた地理的情報'/精鉱中/ pp.221の図表を 土台で '李堰怨の検察日記(独島領有権資料の探求第2冊/シン・ヨンハ/1999)','鬱陵島検察ギェボンチォ' を参考して作成. 本学術だ図表には 4月 30日記録に '金載根と格調を 13人'で記録したが, 確認結果 23人が正確だ.
鬱陵島 開拓当時の移住民たちが独島に 特別な名称を付与しないで石が多い島である 'ドルソム' あるいは彼らの 方言で 'ドックソム'と発音しながら, ドックソムを漢字で訳す過程にその意味を盛る場合 石島で,その音を取った 焚く 独島になったのだ.これと 同じサヨングリェは全羅道地方を中心にして全国的に現われる一般的な サヨングリェだったことをシン・ヨンハ教授が韓国地名大辞典で隅隅まで調査したし, 今も鬱陵島住民たちが独島を 'ドックソム' あるいは 'ドルソム'と呼んでいて,大韓帝国勅令第41好意 石島が独島を指称するという主張はその根拠が明らかだと言うでしょう.
- 最終更新:2009-03-03 07:26:29