第一二号 渡辺洪基 松島之議 二



第十二号 松島之議 二

 松島と竹島即ち韓名鬱陵島は、聞く所に寄るに一島二名あるが如しと雖ども、旧鳥取縣令に聞くに全く二島の由と認め、又戸田敬義、加藤、金森謙なる人の書に隠岐国松島西島[松島の一小属なり。土俗呼んで次島と云]より海上道規凡四十里許、北方に一島あり。名を竹島と云ふ云々。又伯州米子より竹島迄海上道程百四十里許あり、米子より出雲に出て隠岐の松島を経て竹島に到るなり。

 但し隠岐の福島[一謂福浦]より松島迄海上道程六十里許松島より竹島迄四十里許云云。又竹島より朝鮮へ海上道規四十里許と云。此説は亨保九年昔屢渡海せる一老叟に詰問せられし時、其答に伯州會見郡濱野目三柳村より隠岐の後島へ三十五、六里あり。此遠見の考を以て竹島より朝鮮山を見れば、少し遠く見れば凡そ四十里許りと云ふに因る云々。是を以て考ふれば二島ある事瞭然たるが如し。

 洋書に就て按ずるに、英のインペリヤールガゼツトルに、ダケレツト(ダゼラと音す)島即ち松島は日本海の一島にして日本島と朝鮮半島の間にあり。其西北の點、北緯百三十七度二十五分、東経[グリーンチイツチよりの算]百三十度五十六分、一千七百八十七年、ラペルーズの名くる所、周圍九里海巖は絶壁之を境し、其最高處に至るまで樹木森々たり。又クワピンコツト著プロナヲンシンク、ガセフテル、ゼヲールルド、ダゼラは、日本海の小島にして日本朝鮮の殆んど中間にあり。周圍八里北點北緯三十七度二十五分、東経百三十度五十六分」とあり。

 之を地図に徵するに英海軍測量圖載する所ダゼラ即ち松島と題せる者、其地位二書に載する所の如し。英のロヤールアトラス、佛ブルーエの大図、英女王地理家ゼイムスウイルドの日本朝鮮図、日耳曼ヲーペルス亞細亞国、千八百七十五年ゴツタノスチールスのアトラス、ウアイマル、地理局の圖、皆な同地位にダゼラ島を置き、英測量図には點線を以って限るものの外は、東経百二十九度五十七八分、北緯三十七度五十分にアルゴナウト即ち竹島と題したる者を置て、魯西亞の地図局の図にも同處に之を慥かに置て、又金森謙の書に竹島周圍大凡十五里とあり。又戸田敬義の図、私船の測量を総計すれば二十三里餘となる[尤曲屈出入を合せ沿岸]、去れば彼松島即ち「タゼラ」島の周圍と異なる事少々ならず。

 而し図中南隅に一里半周圍の一島を載す。是于山島なるべし。眞圖に就て測量するに、隠岐島と松島・竹島・朝鮮の距離凡そ符合す。されば松島竹島の二島なるは殆んど判然たり。唯我国の書に竹島之事のみ多くして松島の事なきは大小貧富の差より竹島に往來するのみにして、且朝鮮との争論も竹島にのみ関係したる故と思わる。此島の外国の認むる處を図に徵すれば、英国の諸図は對馬島と合せて朝鮮の色とし、佛も亦同じ日耳曼ゴタ、スチーレルスの圖には対馬と合せて日本色とし、唯ウアイマルの地理局図のみ対馬を以って日本色とし、松島竹島を朝鮮色とて、英佛の對州を合せて朝鮮色にせしは対馬即ち日本版図に相違なければ、隨て松島竹島も其色を變せん。

 即ちスチーレルの図は此結果なるべし。況ん哉松島竹島を以って傳ふ其語は日本語なり。因て考ふれば此島は暗に日本所屬と見なしたるべし。偖我國と朝鮮との関係を論すれば、旧幕府無事を好むより竹島を以て唯彼地図に鬱陵島と均しきと、其地の遠近を以て朝鮮に讓與せりと雖ども、松島竹島ニ島あり。松島は竹島より我近き方にあれば日本に屬し朝鮮又異論ある能はす。而して其緊要に論すれば同島は殆んど日本と朝鮮の中間に位し、我山陰より朝鮮咸鏡道永興府即ち「ラサレヲ」港との航路に當り、長崎より「ウラシヲストツク」港、航舶の日必近づく所、其緊要なる所謂竹島に數倍す故に、今英魯等の頻りに注目する所となれり。而して各國の認むる所、是の如し。然るに我国にては松島竹島二島一嶼の事判然ならず。隨て朝鮮に屬する哉否をも知らするなり。若し外国の問に逢ふ又答ふる所を知らず。若我物とせん歟之に関する義務なかるべからず。之を朝鮮に歸せん歟、外國に注意せざるを得ず。是再考す所以なり。

記録局長 渡邊洪基 述




     竹島之議二
松島と竹島即ち韓名蔚稜島は聞く所に寄るに一島二
名あるが如しと雖も旧鳥取県令に聞くに全く二島の
由と認め又戸田敬義加藤 金森謙なる人の書に隠岐
国松島西島松島の一属なり土俗にて次島と云より海上道規
丸四十里許北方に一島あり名を竹島と云う云々又伯州米子
より竹島迄海上道程百四十里許あり米子より出雲に
出て隠岐の松島を経て竹島に到るなり但し隠岐の福
島一謂福浦より松島迄海上道程六十里許松島より竹島
迄四十里許云々又竹島より朝鮮へ海上道規四十里許と
云此説は享保九年昔属渡海せる一老叟に詰問せられ
し時其答に伯州会見郡浜野目三柳村より隠岐の後島
へ三十五六里あり此遠見の考を以て竹島より朝鮮山
を見れば少し遠く見れば凡そ四十里許りと云うに因
る云々是を以て考うれば二島あるは瞭然たるが如し
洋書に就いて按ずるに英のインペリヤールガセットル
にダケレツト島即松島は日本海の一島にして日本島
と朝鮮半島の間にありその西北の○北緯百三十七度
二十五分東経グリーンチイツチよりの算百三十度五十六分一千
七百八十七年ラペルーズの名くる所周囲九里海巌の
絶壁之を境し其最高処に至るまで樹木森々なり又リ
ワピンコット著プロナオンシンクガセッテルゼヲー
ルッドにダゼラは日本海ノ小島にして日本朝鮮の殆ん
ど中間にあり周囲は八里北○北緯三十七度二十五分東
経百三十度五十六分とあり之を地図に徴するに英海
軍測量図載する所ダゼラ即松島と題せるは其地位
に著に載する所の如し英のロヤールアトラス仏ブル
ーエの大図英女王地理家ゼイムスウイルドの日本朝鮮
図ゼルマンヲーペルス亜細亜國千八百七十五年ゴッ
タノスチールスのアトラスウアイセルの地理局の図
皆同地位にダゼラ島を置き英測量図には○線を以
て限るものの外は東経百二十九度七八分北緯三十七
度五十分にアルゴナウト即竹島と題したる者を置
て魯西亜の地図局の図にも同処に之を慥かに置て
又金森謙の書に竹島周囲大凡十五里とあり又戸田敬義
の図私船の測量を総計すれば二十三里余りとなる
九曲屈出入を合わせ沿岸去れば彼松島即ち「ダゼラ」島の
周囲と異なる事少なからず而し図中南隅に一里半周囲の一島を載す
これ于山島なるべし眞(「其」か?)図に就て測量するに隠岐島と松
島竹島朝鮮の距離凡そ符合すされば松島竹島の二島
なるは殆ど判然なり唯我国の書に竹島之事のみ多く
して松島の事なきは大小貧富の差より竹島に往来
するのみにして且朝鮮との争論も竹島にのみ関係し
たる故と思わる此島の外国の認むる処を図に徴すれ
は英国の諸図は対馬島と合せて朝鮮の色とし仏も亦
同じゲルマンゴタスチーレルスの図には対馬と合せて
日本色とし唯ウアイマルの地理局図のみ対州を以て
日本色とし松島竹島を朝鮮色とて英仏の対州を合せて
朝鮮色にせしは対州既に日本版図に相違なければ
随て松島竹島を其色を変せん即ちスチーレルの図は
此結果なるべし況や松島竹島を以て伝う其語は日
本語なり因を考うれば此島は暗に日本所属と見做し
たるべし偖我国と朝鮮との関係を論ずれば旧幕府無
事を好むより竹島を以て唯彼地図に蔚陵島と均しき
と其地の遠近を以て朝鮮に譲与せりと雖も松島竹島
二島あり松島は竹島より我近方にあれば日本に属
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松島と竹島 即ち韓名鬱陵島は聞く所に倚るに 一島二
名あるか如しと雖とも 旧鳥取県令に聞くに 全く二島の
由と認め 又戸田敬義加藤金森謙なる人の書に 隠岐
国 松島西島(*1) より 海上道規凡四十
里許 北方に一島あり 名を竹島と云ふ云々。 又伯州米子
より竹島迄 海上道程百四十里許あり。米子より出雲に
出て 隠岐の松島を経て竹島に到るなり。 但し 隠岐の福
島(一謂福浦)より松島 海上道程に十里許。 松島より竹島迄
四十里許 云々 又竹島より朝鮮へ 海上道規四十里許と
云。 此説は亨保九年昔● 渡海せる一老●に 詰問せられ
し時 其答に 伯州会見郡濱野目三柳村より 隠岐の後島

へ三十五六里あり。 此遠見の考を以て 竹島より朝鮮山
を見れは 少し遠く見れは 凡そ四十里許りと云ふに因
る。 云に是を以て考ふれは 二島ある事 瞭然たるか如し。
洋書に就て 按するに英の「インパリヤルガセツトル」
に「ダケレツト(ダゼラと音す)」島即松島は 日本海の一島にして 日本島
と朝鮮半島の間にあり 其西北の点 北緯百三十七度二
十五分 東経(グリーンチトツチヨリの算)百三十度五十六分。一千
七百八十七年ラペールズの名くる所 周囲九里海巌は
絶壁之を境し 其最高処に至るまて樹木森森たり」。 又リ
ワピンコツト著プロナヲンシンク、ガセフテル、ゼヲー
ルルド」にだぜらは 日本海の小島にして 日本朝鮮の殆ん
と中間にあり。 周囲八里 北点北緯三十七度二十五分 東
経百三十度五十六分」とあり。 之を地図に徴するに英海

軍測量図 載する所 だせら即ち 松島と題せる者 其地位
二書に載する所の如し。 英のロヤルアトラス、仏ブル
ーエの大図、英女王地理家ゼイムスウイルドの日本朝
鮮に日耳 曼ヲーペルス亜細亜国 千八百七十五年 ゴツ
タノスチルスノアドラス、ウアイマルル地理局の図
皆な同地位に ダゼラ島を置き 英測量図には 点線を以
て限るものの外は 東経百二十九度五十七八分、北緯三十七
度五十分にアルゴナウト即ち竹島と題したる者を置
て 魯西亜の地図局の図にも 同処に之を●かに置て 又
金森謙の書に 竹島周囲大凡十五里とあり 又戸田敬義
の図 私船の測量を総計すれは 二十三里余となる(尤曲屈出入を合せ沿岸)
去れは彼松島 即ち「タゼラ」島の周囲と異なる事
少々ならす。 而し 図中南隅に 一里半周囲の一島を載す

 是于人島なるべし。 真図に就て測量するに 隠岐島と松
島竹島朝鮮の 距離凡そ符合す。 されは松島竹島の二島
なるは 殆んと判然たり。 唯我国の書に 竹島之事のみ多
くして 松島の事なきは 大小貧富の差より 竹島に往来
するのみにして 且朝鮮との争論も 竹島にのみ関係し
たる故と思わる。 此島の外国の認むる処を 図に徴すれ
は 英国の諸図は 対馬島と合せて朝鮮の色とし 仏も亦
同し。 日耳曼ゴタスチレルスの図には 対馬と合せて
日本色とし 唯ウアイマルの地理局図のみ 対州を以て
日本色とし 松島竹島を朝鮮色とて 英仏の対州を合せ
て朝鮮色にせしは 対馬既に日本版図に相違なけれは
隨て 松島竹島も其色を変せん。 即ちスチレルの図は
此結果なるへし。 況んヤ 松島竹島を以て伝ふ 其語は日

本語なり。 因て考ふれは 此島は暗に日本所属と看做し
たるへし。 我国と朝鮮との関係を論すれは 旧幕府無
事を好むより 竹島を以て 唯彼地図に鬱陵島と均しき
と 其地の遠近を以て朝鮮に譲与せりと雖とも 松島竹島
二島あり 松島は竹島より我近き方にあれは日本に
属し 朝鮮又異論ある能はす。 而して其緊要に論すれは 同
島は 殆んと日本と朝鮮の中間に位し 我山陰より朝鮮
咸鏡道永興府 即ち「ラサレヲ」港との航路に当り 長崎よ
り「ウラジヲストック」港 航舶の日 必近つく所 其緊要な
る 所謂竹島に数倍す。 故に今英魯等の頻りに注目する
所となれり。 而して 各国の認むる所 是の如し。 然るに我
国にては 松島竹島二島一嶼の事 判然ならす。 隨て朝鮮
に属する哉否をも知らさるなり。 若し外国の問に逢ふ

又答ふる所を知らす。 若我物とせん歟 之に関する義務
なかるへからず。 之を朝鮮に帰せん歟 外国に主意せ
さるを得す。 是再考す所以なり。

               記録局長 渡辺洪基

  • 最終更新:2009-03-01 08:19:40

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