2 官撰地誌における竹島・松島

 1868年、明治維新を達成した新政府は、封建国家を近代的な国家に発展させるために多くの施策をおこなった。その施策の中に国土の詳細な地図の作成や、地誌編纂、地籍編纂などがあった。中でも国家としての官撰地誌編纂は奈良時代の「風土記」以来、実に千年ぶりの本格的な事業であった。その大事業を推進するために明治政府は1872(明治5)年、太政官に正院地誌課を設けた。太政官とは太政大臣や左右両大臣、参議などからなる国家の最高行政機関であり、内務省などの各省を管轄した。今日の内閣に相当する。

  正院地誌課は2年後に内務省地理寮に移ったが、その翌年にはまた正院に戻るなど目まぐるしく組織が変遷した。最終的には内務省地理局に地誌課が1878年に新設されてそこに落着いた。その間に官撰地誌である『日本地誌提要』を順次編纂し、1879年までに全8冊、77巻を刊行した。その第4冊、第50巻「隠岐」において、竹島・松島はこう記された。

 本州の属島。知夫郡四拾五。海士郡壱拾六。周吉郡七拾五。穩地郡四拾三。合計壱百七拾九。之を総称して隠岐の小島と云。
 又、西北に方たりて松島・竹島の2島あり。土俗相伝て云ふ。穩地郡福浦港より松島に至る。海路凡六拾九里三拾五町。竹島に至る。海路凡百里四町余。朝鮮に至る海路凡百三拾六里三拾町。

  この官撰地誌において竹島・松島が本州の属島とは別に記載されたが、これは重要である。両島が本州の属島でなければ、もちろん九州や北海道の属島でもなく、両島は日本の領土外として扱われたと解される。

  明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記した。

 明治の初年に到り、正院地誌課に於て其(竹島=独島、筆者注)の本邦の領有たることを全然非認したるを以て、其の後の出版にかかる地図は多く其の所在をも示さざるが如し、明治八年文部省出版宮本三平氏の日本帝国全図には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず、又我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコート岩と題し、リアンコート号の発見其他外国人の測量記事を載するのみなり。

  田中は、その論文において竹島と松島を一時混同したが、いずれにしても官撰地誌が竹島と松島を日本領外にしたという理解に変わりはない。以上のように明治政府が両島の領有を否認したのは、内務省が両島の歴史を充分精査した結果であった。その精査の記録が『磯竹島覚書』である。


レジメ

2)官撰地誌『日本地誌提要』編纂、千年ぶりの大事業
 ○1872(明治5)年、太政官正院地誌課が官撰地誌の編纂に着手。
  内務省地理局地誌課『日本地誌提要』発刊(~1879)、竹島・松島を本州の属島外と
  して記述(別刷p34)。
 ○ 1875年、正院地誌課の中邨元起『磯竹島覚書』を校正。

 「竹島一件」1693(元禄6)年
  大谷家が竹島(欝陵島)で安龍福らを拉致し鳥取藩へ引渡す。
  (両家は幕府による一回限りの竹島渡海免許を元に毎年出漁)
 鳥取藩は幕府へ朝鮮人の竹島渡海禁止、アワビの献上継続を申入れ。
 幕府は対馬藩へ安龍福らの送還と渡海禁止交渉を指示。勘定頭の竹島確認。
 朝鮮は竹島越境犯の処罰を約束し、「弊境の蔚陵島」海禁の書簡(一島二名)。
 対馬藩は竹島領有を画策、「弊境の蔚陵島」削除を要求。交渉は暗礁。
 幕府は竹島調査、その時まで松島(竹島=独島)を知らず、追加質問(p36)。
 鳥取藩などが竹島・松島の領有を否定。幕府は竹島渡海禁止を指示。

  • 最終更新:2009-02-27 22:15:05

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