3 『磯竹島覚書』と「竹島一件」

  1875年、太政官正院地誌課の中邨(中村)元起は江戸幕府関係史料や対馬藩政史料、鳥取藩政史料などの古文書を集め、竹島を放棄した経緯をまとめた『磯竹島覚書』を校正した[1]。同書は特に江戸時代のいわゆる「竹島一件」に重点をおいて記述した。竹島一件とは、幕府の特別許可を得て竹島で漁をしていた米子の大谷家が元禄期に同島で出会った朝鮮人漁夫・安龍福らを拉致したが、その事件の後処理をめぐって朝鮮と対朝鮮の交渉窓口になっていた対馬藩との間でなされた竹島の領有権論争をさす。

  『磯竹島覚書』は、後に内務省が竹島・松島を版図外と判断する際の基本資料になった重要な史料である。同書は写本によっては表紙の題箋が『磯竹島事略』、内題が「磯竹島覚書」とされるが、内容はほぼ同じである。ただし『磯竹島事略』は「乾」「坤」の二巻からなるが、『磯竹島覚書』にそのような区別はない。『磯竹島事略』「乾」巻は「竹島一件」に関して交わされた対馬藩と朝鮮間の初期の書簡や、それに関連する対馬藩内の口上書、朝鮮側の主張の根拠になった『輿地勝覧』や『芝峰類説』の関連史料などを収めている。『磯竹島事略』「坤」巻は竹島一件交渉が行きづまった1695(元禄8)年以降、対馬藩が幕府と共に解決策を模索した過程の記述が中心である。同書により竹島一件の全体像を知ることができる。

  竹島一件の解決策であるが、対馬藩は幕府の当初の方針どおり、朝鮮人の竹島渡海禁止要求を変えずに朝鮮と交渉を継続するよう主張したのに対し、幕府は独自の調査をもとに方針を変え、竹島を放棄する方向に転じた。幕府の独自調査は因幡・伯耆二カ国を支配する鳥取藩に対して質問書の形でなされた。最初の質問は7か条から成るが、内容は「因州伯州え付候竹島」がいつ頃から両国の付属になったのか、竹島はどのような島か、他に島はあるのか、あるいは竹島渡海の実状などであった。

  それに対する鳥取藩の回答書で注目されるのは、竹島が同藩に所属する島でないと明言したのに加えて、「竹島松島其外両国え附属の島」は無いと回答したことである。幕府は鳥取藩の回答に松島が新たに登場したことに関心をもち、さらに松島に関する詳細な質問を追加した[2]。実は、幕府はこの時まで松島の存在を知らなかったのである。鳥取藩の回答が決め手になり、幕府は竹島などを朝鮮領であると認識したのである。その判断をもとに対馬藩と協議し、最終的に朝鮮へは当初の要求とは逆に日本人の竹島渡海を禁止する幕府の決定を伝えた。

  内務省はこの詳細な経緯を『磯竹島覚書』にまとめたので、同省が竹島・松島を一対にして日本領外と認識して『日本地誌提要』を編纂したのは当然であった。なお、竹島・松島を一対にする表現は江戸時代には一般的であった。1667年、隠岐郡代の斉藤豊宣は藩命により隠岐の地誌を調査し『隠州視聴合記』を著わしたが、同書にも竹島・松島は一対として扱われた。また、江戸時代中・後期に広く使用された長久保赤水の地図「改正日本輿地路程全図」(1779年)などでも両島は一対として記述され、しかも両島は朝鮮国同様に無彩色にされたのである。これは『隠州視聴合記』が隠州を日本の西北の限界とし、竹島・松島を日本領外[3]にしたことに対応している。


[1]大熊良一『竹島史稿』原書房、1968,p.254
[2]塚本孝「竹島関係旧鳥取藩文書および絵図(上)」、『レファレンス』第411号、1985、p.86
[3]池内敏『大君外交と「武威」』名古屋大学出版会、2006,p.351


質問集

7)韓国では、安龍福が日本へ連行されたときに竹島は朝鮮領であることを日本に認めさせたなどと主張しているが疑問である。
7')韓国の主張における疑問点は韓国へ向かって正すべきではないか。

答)1693年に安龍福が連行されたときに独島が朝鮮領であるとの書契を伯耆藩からもらったと主張する人が韓国では多いのですが、日本の史書を照合すると疑問です。ただし、1696年に安龍福がみずから来日した時、彼は欝陵島と子山島(独島)が朝鮮領であると主張したことは日本の村上家文書などから確認できるのですが、1693年の場合は日本の史書ばかりではなく、朝鮮史書を見ても疑問です。安龍福の取調官は、拉致された一介の漁民が領土主張しても日本は認めないだろうと判断していましたし、首相に相当する領議政も同じように考えていました。
   私は、そうした疑問点に対して両国の史書を検証して『安龍福事件に対する検証』を韓国水産開発院から出しました。その本は非公開ですが、今後も機会あるごとに韓国へも疑問点をぶつけていきたいと思っています。

  • 最終更新:2009-02-27 22:32:54

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