4 太政官の竹島外一島版図外指令

  明治政府は、竹島・松島を日本の領土外とする方針を1905年「リャンコ島(竹島=独島)編入」まで一貫して堅持した。その一例として地籍編纂事業をあげることができる。明治政府は近代的な土地台帳を作成するために全国の地籍編纂事業を実施したが、その過程において竹島の地籍が問題になった。1876(明治9)年、内務省地理寮の田尻らは島根県を巡回した際に竹島の情報に接し、これをいかに扱うべきか、同県の地籍編制係に竹島を照会した。

  これをうけて、島根県は竹島へ渡海していた大谷家の記録などを調査し、それらの書類を添え、同年10月16日、内務卿あてに伺書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出した。「外一島」とは松島を指す。この時、島根県が地理寮の伺書にはなかった「外一島」をわざわざ伺書につけ加えたのは、大谷家資料に「竹嶋近辺松嶋」、「竹嶋の内松嶋」などと記されており、松島は竹島と一対、あるいは竹島の属島であるという認識が強かったためとみられる。両島は島根県伺書の付属書類「由来の概略」にこう記述された。

島根県伺書付属「由来の概略」

磯竹島一に竹島と称す隠岐国の乾位一百二拾里許に在り周回凡十里許山峻険にして平地少し川三条あり又瀑布あり然れとも深谷幽邃樹竹稠密其源を知る能はす・・・次に一島あり松島と呼ふ周回30町許竹島と同一線路に在り隠岐を距る八拾里許樹竹稀なり亦魚獣を産す

  この文章から松島、すなわち外一島が現在の竹島=独島をさすことは疑いない。そのため、多くの研究者、たとえば堀和生[4]や塚本孝[5]、内藤正中[6]らはそのように理解した。そうした中、下條正男は「竹島外一島」の比定に関する見解を毎年のように変えており異色さが注目される。2004年、下條は「「竹島外一島」の「一島」が、今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としない[7]」と記したが、2006年には一転して「外一島とは当時の松島、現在の竹島を指していると思う[8]」と考えを変えた。しかるに2007年3月にはさらに自説を変更し、次のように記した。


 島根県が伺いを立てた[竹島他一島]と,太政官が判断した[竹島他一島]には違いがあった。『公文録』に添付された島根県提出の「礒竹島略図」には、現在の竹島と礒竹島(現在の欝陵島)が描かれ、島根県では欝陵島と竹島を日本領として認識している。・・・・結論から言うと,太政官が[関係なし]とした[竹島他一島]は、二つの鬱陵島を指しており、現在の竹島とは関係がなかったのである[9]。

  下條はこの文にて、島根県は「外一島」を竹島=独島と認識していたが、太政官は「外一島」を欝陵島と認識し、両者の理解には違いがあったと記した。この見解は、島根県竹島問題研究会の座長として示されただけに重要である。ところが、それから半年もしない内に下條は座長見解を変更し、島根県のいう「外一島」も欝陵島を指すとして「島根県は[竹島]のみならず、[松島]をも欝陵島と認識していた。つまり[竹島他一島]は,いずれも現在の欝陵島のことを指していたのである[10]」と又もや自説を変えた。このように自説を何の説明もなしにしばしば変えるとは、あまりにも異例である。

  しかし、松島が今日の竹島=独島であることは『公文録』内務省之部に保存された「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」の付属地図「磯竹島略図」(図1,2)からも一目瞭然である。同図に描かれた松島は、東西二島からなる小島であり誰の目にも現在の竹島=独島であることは明らかである。この地図は島根県が大谷家図面をもとに作成したものであるが、それを内務省は同省の伺書に添付して太政官へ提出したのである。したがって、松島に関する地理的認識は島根県や内務省、太政官に共通することはいうまでもない。

  さて、島根県からの伺書を受けた内務省は竹島外一島を本邦に関係ないとの結論を慎重にくだした。かつて内務省は『日本地誌提要』や『磯竹島覚書』を編纂し、両島を日本領外であるとの認識をもっていたので当然の判断であった。そのうえで「版図の取捨は重大の事件」との認識から翌年3月、念のために太政官へ伺書「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を提出した。

  太政官に提出された伺書は太政官調査局で審査された。その結果、内務省の見解をそのまま認める指令案が作成され、稟議に回された。これは右大臣岩倉具視、参議大隈重信、同じく寺島宗則、大木喬任らにより承認、捺印され、内務省へ伝えられた。この指令は内容が重大なだけに関係書類と共に『太政類典』にも「日本海内竹島外一島を版図外と定む」として以下のように記録された。

三月廿九日[十年]
     日本海内竹島外一島を版図外と定む
  内務省伺
     竹島所轄の儀に付島根県より別紙伺出取調候処該島の儀は元禄五年朝鮮人入島以来別紙書類に摘採する如く元禄九年正月第一号旧政府評議の旨意に依り二号訳官ヘ達書三号該国来柬四号本邦回答及ひ口上書等の如く則元禄十二年に至り夫々往復相済本邦関係無之相聞候へとも版図の取捨は重大の事件に付別紙書類相添為念此段相伺候也

三月十七日内務
    (朱書)伺の趣竹島外一島の儀本邦関係無之儀と可相心得事

三月二十九日

  このように、明治時代の最高国家機関たる太政官は内務省が上申したとおり、竹島、松島をセットにする理解にもとづいて、両島を日本領でないとして内務省へ指令をくだした。さらに内務省から現地の島根県へ太政官の指令が伝達され、この問題はすべて決着した。


[4]堀和生「1905年日本の竹島領土編入」、『朝鮮史研究会論文集』第24号、1987、p.103
[5]塚本孝「竹島領有権問題の経緯」、『調査と情報』第289号、1996、p.5
[6]内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社、2007、p.20
[7]下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004、p.123
[8]下條正男『発信竹島』山陰中央新報社、2006、p.19
[9]下條正男「最終報告にあたって」、『「竹島問題に関する調査研究」最終報告書』竹島問題研究会、2007、p.2
[10]下條正男「日本の領土「竹島」の歴史を改竄せし者たちよ」、『諸君』、2007、p.103


レジメ

3)全国の地籍編纂
 1876年、竹島・松島に関して島根県が内務省へ地籍編纂伺を提出。
  (松島を「由来の概略」、「磯竹島略図」に記載、p37,39)
 翌年、内務省は「竹島一件」関連書類や島根書類を添え、太政官へ地籍編纂伺。
 2週間後、太政官「竹島外一島之儀本邦関係無之」指令。


質問集

1)島根県発行の「フォトしまね」161号に竹島は竹嶼であると書かれているのではないか?

答)「フォトしまね」161号には、明治政府とでもいうべき太政官が1877年に本邦の版図外とした「竹島外一島」について、竹島を欝陵島、外一島を今日の竹島(独島)としました。それが島根県の公式見解です。

5)朴裕河の和解論をどう思うか?

答)韓国で和解論を主張している朴裕河さんは、日本でも『和解のために』を出版して朝日「大佛次郎論壇賞」を受賞しましたが、その本は独島に関する限り、重大な認識の誤りが多いのが実状です。日本の主張を誤解していたり、はなはだしくは日本の主張と韓国の主張を取り違えたりしました。たとえば、重要な争点である太政官の「竹島外一島」を版図外とする指令について日本の主張をこう述べました。
    •  「明治政府は鬱陵島ともう一つの島が朝鮮領だとの判断を下したが、このときの言及にあるもう一つの別の島とは竹島ではなく、鬱陵島の横にある小さな島のことであった」

  この後半の部分は、日本では誰も主張していません。朴裕河さんの誤りです。また、1693年に安龍福が連行されて来日した時、彼と鳥取藩とのやりとりについて日本側の主張を彼女はこう述べました。
    •  「当時交渉の末に伯耆藩の藩主が朝鮮領と認定したふたつの島というのは、鬱陵島と竹島ではなく、鬱陵島と竹嶼島であった」

  まず、伯耆藩は存在せず、鳥取藩というか、あるいは伯耆国というべきです。それよりも重大なのは、藩主が朝鮮領と認定したなどという主張は日本で一切なされたことがありません。これは韓国の主張です。朴裕河さんは日本の主張と韓国の主張を完全に取り違えています。このように基本的な認識が間違った彼女の和解論は、土台のない砂上の楼閣であり、問題を混乱させるだけです。

  • 最終更新:2009-02-27 22:30:19

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