5 官撰地図等における竹島・松島

  江戸時代、幕府は何度も各藩に国絵図の作成を命じ、それをもとにして日本全体の国絵図を作成した。代表的な国絵図は、慶長図(1605年)、正保図(1644年),元禄図(1697年),天保図(1831年)などが知られている。それらの国絵図に竹島・松島は記載されなかった。各藩の絵図や幕府の日本絵図において竹島・松島は日本領と認識されなかったのである。

  19世紀になり、幕府は伊能忠敬の測量にもとづいて近代的な官撰地図を作成した。「大日本沿海実測全図」、いわゆる「伊能図」であるが、そこにも竹島と松島は記述されなかった。これは元禄時代の「竹島一件」の結果から当然である。

  幕末から明治時代前期にかけ、伊能図をもとに官撰地図が出版された。ここで官撰地図とは地理や国土を担当する政府機関が作成した地図をさし、それ以外の政府機関が作成した地図を官製地図と定義する。


(1) 日本の官撰地図

  江戸時代から「竹島領土編入」以前の明治時代に作成された官撰地図をまとめると下記のとおりである。

   (a)1821年「大日本沿海実測全図(実測輿地全図)」幕府作成、俗称「伊能図」
   (b)1867年「官板実測日本地図」幕府出版、1870年に明治政府の開成学校から再版
   (c)1879年「大日本府県管轄図」内務省地理局出版
   (d)1880年「大日本国全図」同上
   (e)1881年『大日本府県分轄図』同上、1882年に改訂

  上記の官撰地図で竹島=独島が含まれるのは、唯一(e)『大日本府県分轄図』(地図帳)のみであり、それ以外の地図に竹島=独島は描かれなかった。ただし『大日本府県分轄図』であるが、竹島=独島は島根県などの各府県図には描かれず、日本や朝鮮を含む極東全体を描いた「大日本全国略図」にのみ描かれた。また注目されるのは、初版の「大日本全国略図」は松島を山陰道、すなわち日本の西北地方と同色に彩色したが、改訂版は同島を無彩色にしたことである。改訂版では初版の誤りを正し、松島を日本領外と表現したとみられる。

  なお、蛇足ながらつけ加えれば、上記すべての地図ならびに下記の官製地図に竹島=独島の別名である「リアンクール」の名前は登場しない。以上のように「リアンクール編入」以前、明治政府の官撰地図はすべて竹島=独島を日本領外に表現したといえる。



(2) 日本の官製地図

  明治時代、内務省以外の政府機関にて作成された日本地図は下記の通りである。

   (a)陸軍参謀局「大日本全図」1877年、竹島・松島は無記載。
   (b)文部省「日本帝国全図」1877年、竹島・松島は朝鮮同様に無彩色。
   (c)陸軍陸地測量部「輯製二十万分一図一覧表」1885製図、1890修正、1892再修。
     松島はなく、竹島に相当する島は点線表示にされ、島名は無記載。

  上記の地図すべてにおいて、竹島=独島は記載されないか、あるいは記載されても日本領外として扱われた。1905年以前、すべての官製日本地図において竹島=独島は日本領外として認識されたといえる。

  官製地図とは別に、海軍水路局は海図を1冊にまとめた『大日本海岸実測図』を明治12(1879)年に発刊した。その中で日本および朝鮮を描いた「日本海岸全図」に欝陵島が松島の名前で、竹島=独島がリアンコールトの名前で記載された。この島名は水路局が依拠していたイギリス海軍の海図の影響によるものである。また、水路局の前身である水路寮は明治9(1876)年に「朝鮮東海岸図」を発刊したが、そこには欝陵島が「松島」の名で、竹島=独島が「ヲリウツア並メネライ礁」の名で記載されたのである。

  こうした軍用地図や海図は地理的な認識を示すだけなので、そこからリアンコールトなどの島に対する国家としての領有意識を判断することはできない。しかしながら、竹島=独島が洋名のリアンコールトなどと命名されたので、少なくとも水路局には日本古来の松島という名前に対する明確な認識はなかったといえる。


レジメ

4)官撰地図の作成、(p41)
 1867年、幕府「官板実測日本地図」。1870年再版。
 1879年、内務省「大日本府県管轄図」、竹島・松島は無。
 1880年、内務省「大日本国全図」、同上。
 1881年、内務省『大日本府県分轄図』、各府県図に竹島・松島は無。
   極東図「大日本全国略図」に竹島・松島有。
 他に文部相や陸軍などの官製地図は竹島・松島を日本領外。

  • 最終更新:2009-02-27 22:17:53

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