8 竹島=独島の編入

 帝国主義国家として順調な発展を遂げた日本は、次第に朝鮮や満州などの海外に進出するようになった。特に日本が日清戦争に勝利するや、日本人の海外進出は顕著になり、明治政府もこれを積極的に支援するようになった。漁業分野において、日本は1898年に遠洋漁業奨励法、1902年に外国領海水産組合法を制定し、一貫して日本人の海外進出を奨励し、官民一体となって朝鮮の漁場へなだれ込むようになった。その結果、欝陵島における日本人の漁業も盛んになり、やがて1903年ころからは、隠岐島民や欝陵島民(韓国人および日本人)の間で竹島=独島でのアシカ猟が始まった。翌年、日露戦争が始まるや、アシカの油などが戦争特需の高値相場で注目され、竹島=独島におけるアシカ猟は過当競争、乱獲の様相を呈するようになった。

  そうした弊害を避け、竹島=独島におけるアシカ猟の独占を図るべく漁民の中井養三郎は奔走し、日本政府へ働きかけをおこなうようになった。それを島根教育界編『島根県誌』(1923)は「三十七年各方面よりの競争濫猟あり。種々の弊害を生ぜんとせり。是に於て中井は此の島を朝鮮領土なりと思考し、上京して農商務省に説き同政府に貸下の請願を為さんとせり」と記した。中井がリャンコ島を朝鮮領と考え、朝鮮政府へ貸下願いを出そうとしたことは彼が島根県へ提出した彼の履歴書からも明らかである。

  中井は農商務省の牧朴眞水産局長や、海軍水路部の肝付兼行部長らと接触するうち、水路部からリャンコ島の所属は「確乎たる徴証なく、ことに、日韓両国よりの距離を測定すれば、日本の方十浬近し・・・日本領に編入する方然るべし」との見解を得た。水路部は前述のようにリャンコ島を朝鮮領と判断して『日本水路誌』ではなく『朝鮮水路誌』に記載したが、その判断を根本的に変えたのである。

  この結果、中井は「リヤンコ島貸下願」を朝鮮政府ではなく日本政府に提出するようになったのであるが、これには最初のうち内務省が反対した。かつて同省は竹島=独島を版図外とする太政官指令を受けていただけに、中井の願書に対して「此時局に際し韓国領地の疑ある莫荒たる一箇不毛の岩礁を収めて、環視の諸外国に我国が韓国併呑の野心あることの疑を大ならしむ」として一旦は却下した。

  しかし、外務省の考えは違っていた。政務局長の山座円次郎は「時局なればこそその領土編入を急要とするなり、望楼を建築し、無線若くは海底電信を設置せば敵艦監視上極めて屈竟ならずや、特に外交上内務のごとき顧慮を要することなし。須らく速かに願書を本省に回付せしむべし」として中井を督促した。

  山座の見解は、当時の日本の戦況からすれば自然な発想であった。日本海(東海)で日本の輸送船がロシアのウラジオ艦隊に次々と沈められ、日本軍は軍需物資の補給に支障をきたしていた。そのため、同海域における軍事施設の強化が急務であり、欝陵島や竹島=独島は軍事上の重要なキーストーンとして浮かびあがった。

  さらに対外関係をみると、この時期、日本は日英同盟や桂タフト条約を締結しており、もはや朝鮮問題で西欧列強に神経を使う必要がなかったのである。こうした外務省の状況判断に内務省も従い、1905年2月、中井から提出された「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を閣議にはかり、正式に閣議決定した。

  ところで、日本政府が竹島=独島を領土編入した論理であるが、それは「無主地」であるリヤンコ島に中井が1903年以来「移住」したので、これを国際法上の占領と認めて日本の領土に編入したというものであった。しかし、この論理には無理がある。まず、中井は竹島=独島に夏季のみ毎回10日程度仮居するにとどまり「移住」にはほど遠かったのである。それにも増して重要なのは、それまで日本政府が朝鮮領と考えていたリヤンコ島を無主地と判断したことである。かつて明治政府は、前述のように内務省や外務省、陸軍、海軍、太政官など関係機関が同島を朝鮮領と考えていたが、その判断を根本的に覆すものであった。

  閣議決定後、領土編入は政府内で秘密裏に処理された。官報による告示もなく、わずかに政府の訓令を受けた島根県が2月22日、県告示40号で同島を竹島と命名し、隠岐島司の所管にすると公示したにとどまった。このように日本の竹島=独島編入は政府レベルで秘密裏になされたので、日本国民はその事実をほとんど知らずにいた。それどころか主要なマスコミすら知らずにいた。告示から三か月以上たった五月三十日、歴史的な日本海海戦の勝利を伝えるほとんどの新聞は政府が命名した「竹島」の名前を用いず、外国名の「リアンコールド岩」という名で報道した。はなはだしくは、海軍省や官報ですら「竹島」でなく「リアンコールド岩」の名をしばらく使用していた[15]。海軍省は水路部を擁し、国境について熟知しているはずなのに、海軍省ですら「竹島」編入の閣議決定が周知徹底していなかったようである。また、地元の山陰新聞は県告示を「隠岐の新島」という見だしで小さく報道した。地元でも古来の松島の名は忘れられてしまい、竹島=独島は新島扱いにされた。竹島=独島に対する固有領土の意識は皆無だったようである。


[15]「官報」、明治38年5月29日・30日


レジメ

6)リヤンコ島(竹島=独島)は欝陵島の属島
 ○ 漁民、欝陵島あってのリヤンコ島。官民、リヤンコ島を朝鮮領と認識。
 ○ 外務省『通商彙纂』(1902.10.16)「欝陵島事情」にリヤンコ島。
 ○ 軍艦「新高」行動日誌(1904.9.25)松島からリヤンコ島=独島へ出漁。
 ○ 官報(1905.9.18)記事「韓国鬱陵島現況」、欝陵島民がランコ島で猟。

7)リヤンコ島の日本領編入、1905.2.22
 隠岐の中井養三郎「リヤンコ島領土編入並に貸下願」を内務省へ提出。
 内務省は編入に反対したが、外務省は賛成。P47
 閣議、無主地に中井が移住したので、国際法上の占領と認め領土編入。
 島根県告示40号、該島を「竹島」と称し、隠岐島司の管轄下とする。
 官報による告示なし。外務省(官報)はリヤンコ島。海軍(官報)も一時。
 江戸・明治(編入前)、一度も竹島=独島に領有意識を公に持たなかった。
○ 欝島島監・沈興澤、1906.
 島根県視察団への返答「滞留の貴邦人に就ては余に於て充分保護すべし」
 朝鮮政府への報告、「本郡所属 独島が外洋100余里にある」


質問集

4)韓国は、(1905年に日本の)閣議による竹島編入を知っていながら抗議しなかったのではないか? 竹島編入は新聞でも報道されたではないか。

答)韓国が日本の竹島(独島)編入を知ったのは、1906年に島根県「竹島視察団」が欝島郡郡守にそれを知らせた時点でした。韓国政府は郡守からその報告を聞いて知ったのですが、その時に韓国は日本によって外交権を奪われ、外交を扱う外部が廃止されていて抗議は不可能でした。
  一方、1905年当時、竹島編入は官報に告示されなかったので、韓国政府はおろか、レジメに書いたように日本の海軍省や外務省、官報の担当者すら竹島編入を知らずに、しばらくの間「竹島」の名でなく「リアンコールド」とか、「ランコ島」などと呼んでいたくらいでした。
 また、新聞に載ったといっても、それは地方新聞である山陰新聞の5、6行の小さな記事であり、しかもリヤンコ島を領土編入したというのではなく、北緯何度かにある新しい島を隠岐島司の管轄下においたというような記事であり、それが独島を日本領へ編入することを意味するのだと気がつくのは困難です。

  • 最終更新:2009-02-27 22:27:48

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