SF条約 補集合がお解かりでない

内藤正中・金柄烈『史的検証 竹島・独島』p107-108より


 1949年12月の第6次草案では、竹島は日本に属する島として記されるが、1950年の第7次草案以降では削除されるのである。
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 ----------- 駐日米国大使館発の文書 -------------
 アシカの立派な住処となるその岩は、一時は朝鮮王朝の領土であった。もちろんその岩は、日本がその帝国主義的勢力を朝鮮に伸ばしていた時は、韓国のほかの領土とともに日本に併合された。
 ところで、その帝国統治の過程において、日本政府は公式にこの領土を日本に帰属させ、県の行政管轄下においた。
 したがって、日本が「済州島、巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」ことと規定したサンフランシスコ講和条約第二条に同意した時、この条約案の作成者は、この岩を日本が放棄した島々の中に入れなかったのであった。
 これらの理由で日本は自国の主権がこの島に及んでいると推定している。勿論韓国は、この様な推定に対して異議を申し出ている。
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 これは1952(昭和27)年10月に作られた「メモ」であるから、対日講和条約の発効後となる。したがって、条約の草案作成に直接影響を与えるものではなかったが、アメリカの国務省当局者が竹島(独島)の問題について如何なる見解をもっていたかを知ることができるといえる。1949(昭和24)年11月19日のシーボルトの提案が、日本政府からの一方的な情報に基づくものであり、韓国側の反論に耳を貸さなかったとしても、アメリカが竹島を日本領土であると断言しなかった背景には、この「メモ」に見られるような内容をもった情報が、アメリカ国務省にもたらされていたためと考えざるをえないのである。

 そのためもあって、対日平和条約のなかでは、竹島の領有権問題を決着させず、意図的にあいまいにしたものということができる。領土について明確にすべき平和条約で、あえて明確にしなかったのは、草案作成の当事者がわざとあいまいにしたものと解釈しなければならないわけで、平和条約に記していない以上、竹島は日本のものになったという説は如何にも早計にすぎるといわなければなるまい。

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 内藤氏は、SF条約で「アメリカが竹島を日本領土であると断言しなかった」と言います。これは、「1949年12月の第6次草案では、竹島は日本に属する島として記されるが、1950年の第7次草案以降では削除されるのである。(p107)」との認識に拠るものです。
 これだと、まるで、竹島は一旦日本領になるがその後削除されたと説明しているようです。表現が不適切です。これは、この部分のみが引用され流布されることを期待したものと邪推しておきます。

 それでは、(竹島は放棄する領域として)「削除され」たのですが、内藤氏は知らなかったのでしょうか。上記メモから、内藤氏は「竹島を日本が放棄した島々の中に入れなかった」によりSF条約が成立していることは承知の模様です。それでも、内藤氏は、SF条約で「アメリカが竹島を日本領土であると断言しなかった」と言い張ります。
 私達は、小学校の算数の時間に、「A君はカステラの1割を捨てました。さて、A君はカステラを幾ら持っているでしょうか。」と問われました。そして、A君はカステラの9割を持っていると教わりました。しかし、内藤氏は、A君が持っているカステラの量は判然としないと考えているようです。内藤氏は、「A君はその9割を持っている」と「A君はその1割を捨てた」は違う質量であると言っているのです。

 更に、内藤節は盛り上がります。
 シーボルト提案は、「日本政府からの一方的な情報に基づくもの」に過ぎず、ラスク書簡は「韓国側の反論に耳を貸さなかった」ので無効と切り捨てます。しかし、シーボルト提案とラスク書簡は、米国の公式見解と受取ることを妨げないものです。一方、上記引用の「メモ」は、米国内の内部文書であり、米国の公式見解と受取ることには無理があります。
 内藤氏は、上記メモによって、シーボルト提案やラスク書簡を否定できると考えているのです。

 内藤氏がすがっている「ワラ」は、「その岩は一時は朝鮮王朝の領土であった」にあるようです。上記メモは、「一時は朝鮮王朝の領土であった」竹島が、SF条約で「日本が放棄した島々の中に入れなかった」ので、日本領として残ったという認識を示しています。そしてその理由を、「公式にこの領土を日本に帰属させ、県の行政管轄下においた」ことにあるとしています。
 これは、どの様に理解すべきなのでしょうか。
 先ず、中東までをも支配した檀君朝鮮は、その東限が竹島にあったと考えられる。しかし、李氏朝鮮の頃には完全に忘れられ無主地になっていた。1905年に、日本が無主地先占により領土に編入したのは適法である。との理由が考えられます。
 又、日本の領土編入が侵略に相当するとしても、1905年の頃、侵略は合法であった。との理由が考えられます。
 最も合理的なのは、「一時は朝鮮王朝の領土であった」といっても、せいぜい、漁民が眺め見たに過ぎないのであり、仮に中世的な権原が存したとしても、今日的な他の権原に置き換える意思が認められないのであるから、日本が近代的な権原に置き換え領有したことに問題は無い。との理由が考えられます。

 この様に考えると、メモの論理を是とする内藤氏は、1905年の竹島編入を争っていないかの様に見えます。




  • 最終更新:2010-03-11 14:58:34

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