01078 『成宗実録』と三峰島

Yahoo!掲示板「竹島」#1078
2003/ 2/ 8

  1470年、成宗は12歳で第9代の王になりましたが、長じてからは治世にたけていたようで儒教思想による王道政治を盤石にしたのをはじめ、ほとんどの基礎を完成させたようで、その意味あいから死後「成宗」という廟号を受けました。実際、成宗の時代は朝鮮開国以来もっとも平和な時代で、その後期には平和的すぎて退廃的な雰囲気も生まれるほどでした(注1)。

  成宗元年(1470)、朝廷に東北の永安道(咸鏡道)観察使から、賦役逃れの「背国情犯」が「三峰島」に入島する弊害がはなはだしいとの報告が入りました。朝廷は三峰島を蔚陵島(欝陵島)と考え、島民を連れ戻すために三峰島敬差官、朴宗元および軍隊を派遣しました。船は大風にあいましたが、4隻のうち3隻が蔚陵島にたどりつき、3日間島を捜索しました。かれらは住居跡を見つけたものの、居住民を発見できませんでした。
  その報告を受けた朝廷は、三峰島と蔚陵島はちがうのではないかと考えるようになり、その調査を永安道観察使に命じました。観察使は、かつて1471年に三峰島に漂泊し島民とじかに接したことがあるという鏡城の金漢京たちを派遣しました。
  1475年、金漢京たちは三峰島から7,8里(3km)離れた地点において島を望見することができましたが、風が強かったため上陸しませんでした。これらの記録からすると、蔚陵島を永安道では三峰島と呼んでいたようです。
  しかし、この報告に疑問を払拭しきれない朝廷は、さらに三峰島のくわしい調査を命じました(注2)。1476年、観察使は金自周に麻尚船5隻を与え、さらに渡航歴のある金興や金漢京、李吾乙亡たちを一行に加えました。金自周たちは、この三峰島探索の過程で今日の竹島=独島を確認したようで、実録にこう記録されました。

『成宗実録』成宗7(1476)年10月丁酉條(注3)
  25日、島の西7,8里に碇泊し望見した。島の北には三石が列立し、次に小島がある。次に巌石が列立し、次に中島がある。中島の西にまた小島がある。みな海水が通じて流れている。
  また、海島の間に人形のように立っているものが30ある。おそろしさのため島に近づくことができなかった。島の形を絵にして帰った。

  島の形を描いた図形は現在伝わっていませんので、島の正確な形は知ることができませんが、この島をめぐって日韓で主張が対立しているようです。川上健三氏はこう記しました(注4)。
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  高麗大学校申教授は、上述のように「金自周の語った三峯島の形状は、今の独島とまったく同じである」となし、さらに、「金自周が語った島の北方に三石が列立しているというのは、西島北方に高くそびえた三つの岩島をいったものである」といい、また、中島は西島のことで、小島と岩石とは東島と西島の間に散在している無数の岩を指している、と述べているが、その形状はむしろ欝陵島に比定する方が、一層自然である。
  すなわち申教授は、金自周のいう「中島」を今日の西島に比定しているが、西島は竹島最大の島であって、これを「中島」とするのはあたらない。今日の竹島は、この西島とこれに次ぐ東島とで主島を構成し、これを囲繞する他の岩礁は、その大きさにおいてこの両島とは格段の相違がある。
  金自周のいうところは、一つの主島を取りまいて、中島・小島・巌石などの付属島嶼があるように受け取れるので、この点からもこれを今日の竹島に比定することは適当でない。
  さらに興味があるのは、金自周の報告にある、島の北にある三石の列立しているという光景である。これは、欝陵島北端近くの三本立の奇勝を指していると考える方が、より適切である。
  三本立ては、海岸の絶壁に近く、高さ5,60メートルの大巌柱が、あたかも鉾を立てたように海面に聳立しており、海から顕著な目標となっているからである。そしてその付近には、金自周のいう小島・巌石に該当する観音崎、一本立島、孔岩等一連の岩礁が点在している。
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 「三石列立」と表現された景観は、欝陵島がふさわしいのか、竹島=独島がふさわしいのかは、両島を見比べてみないと何ともいえないところです。しかし、そのほかの描写からして問題の島を欝陵島とするのは種々の点で無理ではないかと思われます。
  まず、金自周が欝陵島を描写するとしたら、北海岸の大巌柱付近しか説明しないのはあまりにも不自然で考えにくいところです。その一方で、周囲が数十kmもある大きな島を説明するのに、小さな「巌石(がんせき)」まで取りあげるのは不自然といわざるをえません。
  これは、金自周たちが描いた島はそのような大きな島ではなく、小さな島を描写したので小さな巌石まで記述したとみるのが自然なようです。また「海水が通じて流れている」という表現も竹島=独島のほうがより真に迫っていることもたしかです。
  一方、川上氏は竹島=独島で最大の島を「中島とするのはあたらない」と書いていますが、その島が最大であるのなら、私にはさして不自然な表現には思えません。むしろ、川上説にしたがえば、欝陵島本島が「中島」、観音崎や一本立島が「小島」、孔岩が「巌石」に相当することになりますが、そうなると「中島」は小島とは比較にならないくらい巨大でありすぎて、中島という表現自体が成り立たず、川上説はもっと「あたらない」ことになります。また川上氏は、小島の「観音崎」を大巌柱の付近としていますが、10万分の1の地図でそのあたりには小島は見当たりません。わずかに孔岩という岩があるのみです。
  一方、島の東なら至近距離に観音島がありますが、この小島は欝陵島の西側からはもちろんみえません。金自周は船を島の西に碇泊して観察しているので、たとえ方向を多少変えたところで観音島は本島に重なり、その間に海水が通じて流れていると認識することは不可能です。
  さらに、もし金自周たちがたどりついた島が三峰(欝陵)島なら、同島に二度も行ったことのある金漢京たちが気がつかないはずはありません。とくに、この島には「海から顕著な目標」になっているほどの3本の大巌柱があるとのことなので見逃すはずはないと考えられます。それにもかかわらず、実録に目的とする三峰島に行ったとの記述がないのは、やはり金自周は同島でなくほかの島を見たためと思われます。

  以上のように川上氏の反論は根拠が薄弱なようです。やはり金自周がみた島は今日の竹島=独島と見るべきと思われます。

  余談ですが、川上氏は外務省の調査官として竹島=独島を日本領とすべく竹島=独島の史料を調査研究し前掲の著書を出版しましたが、そのなかでなぜか明治政府が竹島、松島を放棄した重要な太政官指令だけはまったくふれませんでした(注4)。それを公表すると日本に不利になるので、故意に資料隠しをしたのではないかと疑われます。そうした著書であるだけに読むときは細心の注意が必要です。



(注1)朴永圭『朝鮮王朝実録』新潮社、1997
(注2)『成宗実録』(巻68)成宗7(1476)年6月癸巳條
下書永安道觀察使李克均曰 今見卿啓 知鏡城金漢京等二人 辛卯五月 漂泊三峰島 與島人相接 又於乙未五月 漢京等六人 向此島 距七八里許 望見阻風 竟不得達 此言雖不可信 亦或非妄 今宜別遣壮健可信人三人 同漢京等入送捜覓
(注3)『成宗実録』(巻72)成宗7(1476)年10月丁酉條
兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峰島尋覓事 遣自周及宋永老 與前日往還 金興 金漢京 李吾乙亡等 十二人 給麻尚船五隻入送 去九月一六日 於鏡城地瓮仇味 發船向島 同日到宿富寧地青巌 一七日 到宿會寧地加麟串 一八日到宿慶源地末應大 二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流 亦海島之間 有如人形 別立者三〇 因疑惧 不得直到 畫島形而來 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發船遭風 不得直到 今漢京等 發船於鏡城瓮仇味 再由此路出入 至畫島形而來 今若更往 可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之
(注4)川上健三『竹島の歴史地理学的研究』(復刻版)古今書院、1996

  • 最終更新:2009-03-03 07:30:16

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