080107 日本地誌提要

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明治時代の「竹島外一島」版図外確認

 かつて奈良時代に全国の風土記が作成されましたが、それに匹敵する本格的な地理誌が明治初年に発刊されました。刊行は、明治時代の国家最高機関である太政官に付属した正院地誌課およびそれを引き継いだ内務省地理局によってなされました。その『日本地誌提要』は、竹島・松島を「隠岐」条にてこう記しました。
 
  ○本州の属島。知夫郡45。海士郡16。周吉郡75。穩地郡43。合計179。これを総称して隠岐の小島という。
  ○また、西北にあたり松島・竹島の2島がある。土俗が伝えている。穩地郡の福浦港から松島に至る。海路はおよそ69里35町(275km)。竹島に至る。海路およそ100里4町(393km)。朝鮮に至る海路およそ136里30町(537.3km)。
  
  このように官撰地誌において竹島・松島が本州の属島外とされましたが、これは重要です。明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味します。明治時代の地理学者である田中阿歌麻呂もそのように理解して『地学雑誌』200号にこう記しました。


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一方、田中さんは同じ部分を次のように紹介しています。
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島嶼
  島津島。・・・
  松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス。・・・・・・
  大森島。・・・
  ○本州ノ屬島。知夫郡四拾五。海士郡壹拾六。周吉郡七拾五。穩地郡四拾三。合計壹百七拾九。之ヲ総称シテ隠岐ノ小島ト云。
  ○又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町
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  このように官撰地誌において竹島・松島が「本州の属島外」とされましたが、これをもって「明治政府が両島を日本の領土外と断定したことを意味する」と半月城さんは主張しています。これは重要です。
  田中さんの紹介記事を見れば明らかなように、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。すると、「明治政府が両島を日本の領土内と断定した」とまでは言えないとしても、「両島を日本の領土外と断定していない」ことを意味すると思われます。


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 take_8591さん、No.16134
> 田中さんの紹介記事を見れば明らかなように、竹島・松島は「本州の属島外」であるけれども、「本州の島嶼内」であると記されています。すると、「明治政府が両島を日本の領土内と断定した」とまでは言えないとしても、「両島を日本の領土外と断定していない」ことを意味すると思われます。

  take_8591さんは、『日本地誌提要』に「松島。一名島山。海士郡豐田村ニ屬ス」と書かれている松島と「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ」と書かれた松島を同一であると考えているのでしょうか?
  言い方を変えれば、島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか? もし、そうだとしたら、地図すら確認せず安易に長々と書きこんで、恥ずかしくないのでしょうか?
  この調子では、田中阿歌麻呂が論文の中でどこまでをリアンクールとして、どこから欝陵島と勘違いしたのかを読み取ることは困難でしょうね。


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> 島前のすぐ東にある松島と、島前のはるか西北にある松島を同一であると主張したいのでしょうか?

  との事ですが、仮に私がその様に誤解して投稿していたとしても、半月城さんがその様に解することが驚きです。
  日本地誌提要は、77個の袋に分類されています。50番目の袋は隠岐と命名されています。この隠岐の袋を開けると、領域・形勢・・・海峡・島嶼・暗礁・・・と多くの袋が表れます。この島嶼の袋を開けると、「島津島・・・」「本州の属島」「又西北に方リテ松島」の袋が表れます。この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は袋が違いますから、松島を「本州の属島」の外と解することに問題はありません。しかし、この「本州の属島」と「又西北に方リテ松島」は、「島嶼」の袋の中に入っていますから、松島を本州の「島嶼」内と解するのが相当です。

  • 最終更新:2009-03-03 07:02:55

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