15191 こういうことですか ?

 朝鮮の歴史的権原って

2006/11/25 20:06 [ No.15190 / 17395 ] 
投稿者 :  henchin_pokoider01  
 
朝鮮人の脳内にしか存在しないという幻(妄想)の
「ひょっこりひょうたん島」のことか?

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 こういうことですか ?

2006/11/25 21:45 [ No.15191 / 17395 ] 
投稿者 :  take_8591  
 
 henchin_pokoider01さんとAm_I_AHO_1stさんは意見を交換されていますが、その趣旨は次のようなことであると理解してよろしいでしょうか。


 日本では、他人の土地に建物を建てたらその建物は建てた者の所有物となり、地主のものにはなりません。しかし、無断建築物はその土地と一体のものであるとして地主の物となってしまう国もあります。この場合、当該土地を借り受けて(=権原によって)建物を建てないと、その建物は建てた者の所有物になりません。尚、韓国の民法がどちらであるかは知りません。

henchin_pokoider01さんの意見

 鬱陵島は朝鮮の領土である。しかし、このことが直ちにリャンコ島の領有権を取得する原因とはならない。リャンコ島の領有権を主張するには、鬱陵島とは別個に領有の意思と実効支配の事実に関する証拠を提示しなければならない。そして、1905年の島根県編入の時点において、日本には領有の意思と実効支配の事実が存在するのに、朝鮮には領有の意思も実効支配の事実もない。

Am_I_AHO_1stさんの意見

 鬱陵島は朝鮮の領土である。この事実は日朝に争いがない。故に(附合により)リャンコ島は朝鮮の領土である。すると、日本がリャンコ島の領有権を主張するなら、朝鮮がリャンコ島の領有権を放棄したとか、日本に売却したとかの権原によって、日本にその領有権が移転したことの証拠を提示しなければならない。尚、朝鮮によるリャンコ島への行政行為が皆無であるという事実の指摘は、日本の領有権原の主張とはならない。

これは メッセージ 15190 henchin_pokoider01 さんに対する返信です


 Re: こういうことですか ?

2006/11/27 4:30 [ No.15193 / 17395 ] 
投稿者 :  henchin_pokoider01  
 
「歴史的権原とやらは権原として成立してない」ってことかな。
曖昧かつ不正確な古い記録では何とでも解釈できちゃうからね。
確実なる権原を立証できない場合に、その曖昧さに付け込んだ
「歴史的権原」なるものをを主張するんだ。
Eritrea Yemen Arbitrationのように。

これは メッセージ 15191 take_8591 さんに対する返信です


 毎度お馴染みヘンポコ論法(6)

2006/11/27 11:26 [ No.15194 / 17395 ] 
投稿者 :  Am_I_AHO_1st  
 
>「歴史的権原とやらは権原として成立してない」ってことかな。
曖昧かつ不正確な古い記録では何とでも解釈できちゃうからね。
確実なる権原を立証できない場合に、その曖昧さに付け込んだ
「歴史的権原」なるものをを主張するんだ。
Eritrea Yemen Arbitrationのように。

 元々の争点を歪曲しないように。

 ヘンポコ論法その1
>韓国が「一度として竹島の権原を取得したことはなく、現在侵略中」

 I wrote:
> 朝鮮王朝時代の公文書に日本が松島と呼ぶ島は朝鮮の領土だと明記してあるのだが、なるほど権原を取得したことはない。何故なら、最初から領土だったのだから、日本のように新たに奪った領土ではない以上、権原を取得していなくて当然なのだよ(笑)

 朝鮮王朝にとっては元々領土なのだから、新たに権原を取得する必要はない。
 一方の日本は、元々領土ではないのだから、新たに権原を取得する必要がある。
 両者の立場は全く違うのだよ(笑)

これは メッセージ 15193 henchin_pokoider01 さんに対する返信です


 Re: 毎度お馴染みヘンポコ論法(6)

2006/11/27 13:53 [ No.15195 / 17395 ] 
投稿者 :  henchin_pokoider01  
 
曖昧記録の作為抽出によるurinara解釈による「歴史的権原」たる妄想は、
権原たりえない。
故に、朝鮮は一度も権原を取得した事実はない。

>何故なら、最初から領土だったのだから
自国領との思いこみだけでは、主張は支持されない(クリッパートン)

これは メッセージ 15194 Am_I_AHO_1st さんに対する返信です


 Re: こういうことですか ?

2006/11/28 7:09 [ No.15202 / 17395 ] 
投稿者 :  take_8591  
 
>曖昧かつ不正確な古い記録では何とでも解釈できちゃうからね。

 そうですね。
 例えば、東国文献備考(1770年)に次のとおりです。
  ①興地志に云う
  ②蔚陵、于山皆干山国の地
  ③于山は即ち倭の所謂松島なり

 韓国領有派は、③が「興地志」(1656年)に掲載されていたと主張しています。

 しかし、林羅山が「本朝地理志略」(1643年)で「隠岐の海上に竹島有り」と朝鮮に伝えています(no10197)から、「于山は即ち倭の所謂松島なり」よりも重要な情報である「蔚陵は即ち倭の所謂竹島なり」も「興地志」(1656年)に掲載されていたと推定するのは合理性があります。この比較的重要性は竹島一件が一段落した1770年でも同じです。なぜなら、朝鮮は「竹島は朝鮮領である」との言質を日本から得ていないからです。
 とするならば、東国文献備考(1770年)に「蔚陵は即ち倭の所謂竹島なり」を転記しなかった理由の解明が必要です。この理由が判明するまでは、「于山は即ち倭の所謂松島なり」は「興地志」ではなく安龍福がもたらした情報であるとの仮説を否定することはできません。

 では、安龍福の于山島認識はどの様なものなのでしょうか。
 日本に残る供述調書には「竹島と松島の間は五十里」(2005/05/17付山陰中央新報)とあり、朝鮮に残る供述調書には「独島まで1日の行程」(no12631)とあるそうです。
 出所が分らなくなったのですが、隠州視聴合紀の1里は約2Km(海里?)だそうです。この前提で計算すると50里は100kmとなり、日本に残る供述調書では正確な位置認識を示しています。この正確な位置認識が朝鮮に帰ると「1日の行程」と曖昧なものに変わっています。これは不思議です。

 供述調書は、供述者の証言を記録したものではなく、供述者の証言から得た録取者の印象(伝聞)を記録したものです。この前提を置くと、「蔚陵、于山皆朝鮮国の領地」という安龍福の意味不明の発言を根気よく聞き取とった日本の官吏が「于山は即ち倭の所謂松島なり」との印象を持ったのではないでしょうか。この官吏の印象は、供述調書の共同作成者である安龍福にも伝わったものと推定できます。

 私の仮説は
 最初に日本の官吏が「于山は即ち倭の所謂松島なり」と考え、これが安龍福に伝わり朝鮮に帰ってからの供述となり、東国文献備考に掲載されるに及んだ。
 日朝2つの供述調書からは、于山島なるものが本当に存在すれば、それは松島であるとの日本の認識が認められ、日本の力を借りなければその所在確認ができない朝鮮の認識が認められる。
 というものです。
これは メッセージ 15193 henchin_pokoider01 さんに対する返信です  

 『本朝地理志略』の「隠岐國竹嶋」

2006/12/22 8:38 [ No.15278 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
take_8591さん

>林羅山が「本朝地理志略」(1643年)で「隠岐の海上に竹島有り」と朝鮮に伝えています(no10197)から、「于山は即ち倭の所謂松島なり」よりも重要な情報である「蔚陵は即ち倭の所謂竹島なり」も「興地志」(1656年)に掲載されていたと推定するのは合理性があります。

『本朝地理志略』に関心を寄せて頂き有難うございます。『本朝地理志略』は「竹嶋」を隠岐国条に配した初出史料ですが、殆ど無視されてきたことを残念に思っていました。

『本朝地理志略』は、「林羅山個人の著作として成立した」簡略だが最初の近世地誌であり(白井哲哉『日本近世地誌編纂史研究』思文閣出版, 2004)、「日本全體の郷土地誌として見るべきもの丶一つ」(藤田元春『日本地理學史』刀江書院, 1942)と評価されました。

『本朝地理志略』は、羅山の息春斎と考槃が日本の人物・鳥獣・節事・四礼儀等を加え、『日本國事跡考=本朝事跡考』として、朝鮮通信使に贈られました。これは正徳4(1714)年に板行されたので、かなり広く知られる様になりました。しかし、これには羅山の名はありません。そのため例えば、「日本三景」は、羅山が『本朝地理志略』に初めて書きましたが、春斎が『日本国事跡考』に書いたのが始まりとされました。

下條正男氏も次のように述べています(『竹島は日韓どちらのものか』文春新書, 2004):幕府が鬱陵島を日本領と認識していた証拠はまだある。- - 林鵞峰と林讀耕斎が贈った『日本国記』の記事がそれである。『日本国記』は正徳年間に『本朝事跡考』として刊行されるが、その隠岐国条には「隠岐の海上に竹島(鬱陵島)あり」と記され、「竹多く、鰒多くして味甚だ美、海獣を葦鹿という」として、鬱陵島の特産物が特筆されている。

『日本國事跡考』は京都大学附属図書館からネットで公開されています。

「日本三景」の命名が羅山或はその子であろうと大した違いはありませんが、林羅山が「竹嶋」を「日本国地誌」の隠岐国条に記したことには重要な意味があるでしょう。羅山はその博識によって幕府の学術顧問のような立場にありました。諮問に答え、幕府の意向に沿う学問的根拠を与えるのが役目でした。さらに羅山は当時、朝鮮との外交文書起草まで管掌していました。従って、羅山が「竹嶋」を「隠岐國」に入れたことは、「林羅山個人の著作」とはいえ、幕府が「竹嶋」を日本領と認めた、と見做されるかもしれません。しかし、その後の「竹嶋」への幕府の対応は、領有化を図った羅山の意に反するものでした。

羅山が「竹嶋」を知ったのは阿倍正之からと思われます。羅山は晩年、しばしば阿倍正之と親しく語り合っており、寛永19(1642) 年には阿部正之の求めに応じて『弓書序』を著しています(鈴木健一『林羅山年譜稿』ぺりかん社, 1999)。さらに羅山はまた、「渡海事業」で獲れた「竹島串鮑」の相伴にも与っていたのかもしれません。「鰒多くして味甚だ美」はなかなか実感が籠っています。

羅山は幕府要人と親しかったので、羅山が「竹嶋」を「隠岐國」に所属させたことは、幕閣も承知していたでしょう。しかし幕府は、「竹嶋」が鬱陵島であると認識しており、外交問題になることを恐れていました。慶長19(1614)年、対馬藩主は朝鮮から次のような抗議を受けました。「礒竹嶋を看審せしの事、甚た其聞を驚かすものなり、- - 来使のいふ所此島慶尚・江原両道の洋中にありと、是我国のいはゆる鬱陵島なり、載てわか輿地の書にあり」(松浦允任『朝鮮通交大紀』1725, 田中健夫・田代和生校訂, 名著出版, 1978)。その後は元禄年間まで、「竹嶋」が外交の場に出ることは無かったようです。朝鮮としても「隠岐海上有竹嶋」では、「竹嶋」が鬱陵島であることに気付かなかったでしょう。

隠岐国を預地として治めていた松江藩も、「竹嶋」を「隠岐國」とするには消極的でした。「正保国絵図」の『出雲国絵図付隠岐国』には「竹嶋」は描かれていません(No.10197)。二十数年後、竹島・松島で以て日本の西北地を限ろうとした、羅山の孫弟子齋藤勘介の意図は、松江藩によって拒まれました。しかし彼は、「漢字という巨大な迷宮」(No.15135)をホンノ少シ利用して、「州」と書き(講談社『大字典』の一説)、「竹島・松島・隠岐」の三島を「隠州」に含めました(Nos.9572, 15178)。
これは メッセージ 15202 take_8591 さんに対する返信です

  • 最終更新:2009-03-09 17:21:03

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