15352 下條正男氏の変説、竹島外一島(2)

 竹島・太政官決定文書で下條氏が新たな見解

2006/12/10 23:46 [ No.15231 / 17395 ] 
投稿者 :  Tanaka_Kunitaka  
 
竹島・太政官決定文書で下條氏が新たな見解

太政官決定前の1875年に日本の陸軍参謀局が作製した「亜細亜東部輿地図」(国立公文書館所蔵)の複写。左上に竹島と松島の記載があるものの、現在の竹島の位置には何の記載もない
 日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題で、明治政府の最高機関だった太政官が「竹島(現在の鬱陵島)と、ほか一島は日本と関係なし」とする内容を記載した1877年の太政官の決定文書について、島根県が設けた竹島問題研究会の座長を務める下條正男・拓殖大教授が、政府が無関係とした中に、現在の竹島は含まれていない、とする見解を明らかにした。

 韓国側は「竹島と、ほか一島」を鬱陵島と現在の竹島と位置づけ、「日本政府が竹島を日本領土ではないと認めていた」として自国領とする根拠の一つに挙げており、その主張に反論する見解として注目を集めそうだ。

 下條氏は先ごろ開かれた研究会で、「太政類典」に収録されている太政官の決定に関する文書を示し、現在の鬱陵島を示す竹島と、松島の記述に着目。竹島に住む動植物などが紹介されているのに続き、隠岐諸島から竹島に向けた同一線上に松島という島があり、米子の商人の大谷家が越後(新潟県)からの帰りに日本海で遭難して漂着したのが、この島(松島)であった、と記していることを明らかにした。

 だが、大谷家に関する文書では、漂着したのは現在の鬱陵島としており、下條氏は「太政官決定の文書にある竹島と松島は、ともに現在の鬱陵島のことが書かれている。当時の政府発行の地図には、現在の竹島の位置に何の記載もなく、竹島と松島が描かれていることから、太政官は、この二つの島は関係なし、としたにすぎない」と指摘。

 「現在の竹島にも触れていない文書を論拠とし、『ほか一島』を現在の竹島とする韓国側の主張には根拠はない」と、韓国側の文献解釈の問題点を明らかにした。
('06/12/10 山陰中央新報)


 Re: 竹島・太政官決定文書で新たな見解

2006/12/10 23:56 [ No.15232 / 17395 ] 
投稿者 :  chaamiey  
 
 なるほど、調べていけばいろいろと出てくるんですね。詳細なことはまだ良く分からないが、面白そうな話です。  

 Re: 竹島・太政官決定文書で下條氏が新たな

2006/12/10 23:59 [ No.15233 / 17395 ] 
投稿者 :  ahirutousagi2  
 
また、私が前から申し上げている、外一島=アルゴノート、ダジュレー説を裏付ける資料が出てきましたね。普通に資料を見れば、そうとしかとりようがないものです。

太政官が現在の竹島を放棄したという話は、成り立つ根拠はありません。あるとすれば、もとより、たとえ現在の竹島を放棄したつもりはなくても「松島」を放棄したのだから、整合性を考えれば現在の竹島を放棄したとみなすべき、というのが限界でしょう。


 下條正男氏の変説、竹島外一島(1)

2007/ 1/27 20:18 [ No.15346 / 17395 ] 
投稿者 :  ban_wol_seong  
 
  半月城です。

  拓殖大学の下條正男氏は「竹島外一島」の解釈でまた変説したようです。まずはその軌跡からみることにします。
  明治政府が領土外と指令した「竹島外一島」について、下條氏は 2004年になってやっと長い沈黙を破り、否定的な考えをこう記しました。
       --------------------
  この太政官による審査は、十分とはいえなかった。「竹島外一島」の「一島」が、今日の竹島を指すのかそうでないのか、判然としないからである。もしその「一島」が今日の竹島だったとすれば、「本邦関係これ無き」というはずがない。佐田白茅の報告を考察した際と同じ議論で、今日の竹島を日本領とする「書留」がすでにいくつもあったからである(注1)。
       --------------------

  ところが下條氏は、昨年は一転して「外一島」を松島(竹島=独島)と認めました。同氏は、CSスカパー256ch「ニュースの深層、竹島問題 現状と今後の課題」('06.5.15)で30分以上熱弁をふるいましたが、そこで「日本の太政官が、竹島は日本の領土ではない、関係がないといっている」と語りました。しかも、明治時代に太政官の指令があったので、竹島=独島を日本の固有領土とするのは適切でないと語りました。明らかな変説といえます。
  今回、その見解をさらに変えたようで注目されます。山陰中央新報はこう報じました。
       --------------------
竹島・太政官決定文書で下條氏が新たな見解
 日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題で、明治政府の最高機関だった太政官が「竹島(現在の鬱陵島)と、ほか一島は日本と関係なし」とする内容を記載した1877年の太政官の決定文書について、島根県が設けた竹島問題研究会の座長を務める下條正男・拓殖大教授が、政府が無関係とした中に、現在の竹島は含まれていない、とする見解を明らかにした。
 ・・・・・
 下條氏は先ごろ開かれた研究会で、「太政類典」に収録されている太政官の決定に関する文書を示し、現在の鬱陵島を示す竹島と、松島の記述に着目。竹島に住む動植物などが紹介されているのに続き、隠岐諸島から竹島に向けた同一線上に松島という島があり、米子の商人の大谷家が越後(新潟県)からの帰りに日本海で遭難して漂着したのが、この島(松島)であった、と記していることを明らかにした。
 だが、大谷家に関する文書では、漂着したのは現在の鬱陵島としており、下條氏は「太政官決定の文書にある竹島と松島は、ともに現在の鬱陵島のことが書かれている。当時の政府発行の地図には、現在の竹島の位置に何の記載もなく、竹島と松島が描かれていることから、太政官は、この二つの島は関係なし、としたにすぎない」と指摘。
       --------------------

  この見解は一見もっともらしく見えます。しかし、内容をよく調べると疑問がわきます。まずポイントは「太政類典」で大谷家が漂着したのが松島であったかどうかです。漂着の記事は添付文書である「由来の概略」に書かれましたが、その口語訳は下記のとおりです。
(つづく)


 下條正男氏の変説、竹島外一島(2)

2007/ 1/27 20:19 [ No.15347 / 17395 ] 
投稿者 :  ban_wol_seong  
 
       --------------------
  磯竹島、あるいは竹島と称する。隠岐国の北西120里ばかりのところにある。周囲およそ10里(40km)である。山は峻険で平地はすくない。川は3条ある。また滝がある。しかし、谷は深く、うっそうと樹木や竹が繁り、水源を知ることはできない。
 ・・・
  魚貝は枚挙にいとまがない。なかんずく、アシカ、アワビが物産の代表である。アワビを採るのに、夕方に竹を海に投げ、朝にこれを引き上げれば、枝葉につくアワビは無数である。その味は絶倫である。またアシカ一頭から数斗の油を得ることができる。
  次に一島あり。松島と呼ぶ。周囲30町である。竹島と同じ船路にある。隠岐をへだてる80里ばかりである。樹木や竹は稀である。また、魚や獣を産する。
  永禄年間(1558-1569)に伯耆(ほうき)国・会見郡米子町の商人、大屋(のちに大谷と改名)甚吉が航海で越後より帰るさい、熱帯性低気圧に遭遇し、この地に漂流した。ついに全島を巡視したところ、すこぶる魚貝に富んでいるのを知り、帰国の日、検使の安倍四郎五郎 <時に幕名により米子城に居る>にそのおもむきを申し出、以後、渡海を申請した。安倍氏が江戸に紹介して、許可書を得た。じつに元和4年(1618)5月16日である(注3)。
       --------------------

  下條氏は、大谷家が永禄年間に漂流した「この地」を松島と解釈したようです。しかし、それは無理ではないでしょうか。松島は竹島と違って、周囲が30町、約3.3㎞の小さな島であり、あらためて「全島を巡視」するまでもありません。全島を巡視したのは周囲が10里もあり、付属文書の主題をなす竹島であることは文脈から明らかです。
  具体的には、上記の文章で魚貝が豊富としているのは竹島であり、松島は「魚や獣を産する」とのみ記し、豊富であるとの記述がないばかりか、貝についての記述もありません。「この地」は竹島(欝陵島)とするのが妥当です。

  さらに歴史的にも大谷家が松島へ渡海を申し出たのは上記に書かれた1618年ころではなく、1650年代だったことが大谷家文書「幕府巡検使に対する請書」から知られています。
  このように、うえの文章における「永禄年間」以降の説明は松島ではなく、竹島に終始していることが明白で、したがって「この地」は松島ではあり得ません。

  他方、下條氏は今回の変説の他の根拠として「当時の政府発行の地図」と称して日本の陸軍参謀局が作製した「亜細亜東部輿地図」を持ちだしましが、これには開いた口がふさがりません。今回、太政官指令を問題にしているのにもかかわらず、その関係文書に付属している「磯竹島略図」を引用しないのは、まぎれもない資料の恣意的引用ではないでしょうか。磯竹島略図をみれば、太政官が放棄した松島が今日の竹島=独島であることが明らかなので、わざと他の地図を引っぱりだしたのでしょうか(注4)。
  ここで、下條氏が磯竹島略図を知らなかったかというと、決してそんなことはありません。下條座長を含む竹島問題研究会が昨年11月上旬に韓国を訪問した時、韓国の研究者からその地図を突きつけられたので、よもや忘れるはずはありません。

  これまで下條正男氏はしばしば「我田引水的文献解釈」を諫めていましたが、今回の変説はその見本ではないでしょうか。そんな下條氏の「研究」発表が「竹島研究会」ではまかりとおっているようです。

(注1)下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春新書、2004、P123
(注2)山陰中央新報 2006/12/10
 「竹島・太政官決定文書で下條氏が新たな見解」
(注3)原文および解説は、半月城通信「明治政府、竹島=独島の版図外確認」
(注4)磯竹島略図



 Re: 下條正男氏の変説、竹島外一島(2)

2007/ 1/28 20:58 [ No.15352 / 17395 ] 
投稿者 :  take_8591  
 
 下條氏の説、私には理解不能です。その内、最終報告という形でその詳細が明らかになるものと期待されます。

 「竹島外一島」とは、「元禄5年に朝鮮人が入島して以来、旧政府と朝鮮国が往復の交渉の末、遂に本邦関係無しの結論に至った(太政官指令)」島のことです。

 半月城さんは、過去に「元禄期の徳川幕府は松島の存在を知らなかった」旨の主張をされています。この判断に基づけば「旧政府と朝鮮国が往復の交渉」において「松島」は考慮の外にあり、「外一島」が松島である可能性は限りなくゼロに近いと言えます。

  • 最終更新:2009-03-09 18:06:29

このWIKIを編集するにはパスワード入力が必要です

認証パスワード