15526 于山島 日本人ハ松島ト名ク

于山島:日本人ハ松島ト名ク
2007/ 4/17 23:19 [ No.15525 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
恒屋盛服は、『朝鮮開化史』(博文舘, 1901)「地理編江原道」欝陵島の項で「大小六島アリ其中著名ナルヲ于山島竹島ト云フ」と記しました。さらに于山島の説明として、括弧で括り「日本人ハ松島ト名ク」との註を入れました。

『朝鮮開化史』は国会図書館近代デジタルライブラリーで読むことができます。

『朝鮮開化史』のこの記事は、1899年9月23日付『皇城新聞』「鬱陵島事况」の冒頭にある「其(鬱陵島)附屬ノ小六島中デ最著者ハ于山島竹島ナリ」との関連を想起させます。

恒屋盛服は、日清戦争起るや亡命中の朴泳孝らと相携へて朝鮮に渡り、1895年「内閣補佐官」となり、記録・編纂・官報事務を監督していました。彼は1899年6月日本に帰りましたが、『朝鮮開化史』は京城で1898年春筆を起し1899年5月稿成ったとされています。従って、上記の記事は校正の間に『皇城新聞』を見て書き入れたか、或は共通の資料から引用したものと思われます。

恒屋盛服が于山島に註記した「日本人ハ松島ト名ク」は、1878年当時の外務省交信局長田邉太一が述べた「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ - - 朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と全く同じです(No. 14932)。

「松島ハ竹島ヨリ我近キ方ニアレハ日本ニ属シ」(松島之議二)として領有化を謀った渡邉洪基らが設立した、興亜会の中国語学校で学んだ恒屋盛服が、「松島ハ于山ナリ」と断言した、田邉太一と同じ認識であったことは大変興味深く感じます。

恒屋盛服は、1891年榎本武揚がメキシコに派遣した日本人殖民についての調査に加わり、『海外殖民論』(博聞社, 1894)の著書もあり、日本人の海外進出に熱心でした。また、『朝鮮開化史』を校閲した國友重章や序文を書いた公使館一等書記官杉村濬は、ともに「閔妃暗殺事件」に関りました。これら日本帝国主義の最前線の活動家達でさえ、松島が欝陵島の属島であることに何の疑いも持たなかったことは極めて重要です。

最近、Gerry-Bevers氏は、上記『皇城新聞』の記事「小六島中デ最著者ハ于山島竹島」を「于山島=竹島」と解釈しました。

もっとも彼は最初、本掲示板で何度も議論されたように(Nos.2781, 3290, 14726, 14897)、『皇城新聞』の于山島は観音島と考えていました。
しかし、観音島は鬱陵島と殆んど接するので(No.14727)、鬱陵島の地図が示す于山島=竹島とは異なるとして、Bevers氏はこの考えを直に撤回しました。

竹島以外を于山島とは認めないBevers氏は、『皇城新聞』の「于山島竹島」の解釈には困惑したようです。句読点を略すことが多い漢文で、「于山島竹島」と併記すれば、普通は別々の異なる島「于山島と竹島」と読みます。しかしそれでは、于山島は竹島であると固執するBevers氏の論拠は崩れます。そこで彼は、「于山島竹島」は一つの島を二つの名前で表していると考えました。しかしながら、韓国でも日本でも、このような併記はしばしば見られます。「于山島竹島」だけを取り上げて、「于山島即竹島」「于山島一云竹島」即ち「于山島=竹島」とするのは、余りにも恣意的に過ぎるでしょう。

次の例は、読点をきちっと打ち、竹島、鬱陵島、于山島がそれぞれ別個の島であることを明確に示しています。「江原道島嶼:- - 竹島、鬱陵島、于山島ハ共ニ東海ノ中ニ散布セル諸島ナリ」(大田才次郎『新撰朝鮮地理誌』博文舘, 1894, 復刻大空社, 2005)。


 Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク

2007/ 4/18 13:43 [ No.15526 / 17395 ] 
投稿者 :  take_8591  
 

>『朝鮮開化史』(博文舘, 1901)「地理編江原道」欝陵島の項

 その群島は、東海上60余里にある鬱陵島である。その群島は、古の于山国である。その群島は、大小6島により構成され、その中著名なるは于山島(日本人は松島と名く)と竹島である。(中略)
 本島は、明治156年の頃日本が朝鮮に譲ったが、日本人の伐木・密貿易は止まなかった。貨物売却の時口銭百分の二を官に納し、木材は船一隻に百両を納し、以って公然の密貿易を営めり。


① 著者について
  >「松島ハ竹島ヨリ我近キ方ニアレハ日本ニ属シ」(松島之議二)として
  >領有化を謀った渡邉洪基らが設立した、興亜会の中国語学校で学んだ恒屋盛服
  であれば、リャンコ島を元禄の竹島一件以来の日本領と考えていたに相違なく
② 東海に入る60余里
  鬱陵島を紹介するに「東海に入る60余里」の文言を用いており、鬱陵島から更に「東海に入る50余里」にあるリャンコ島を念頭においていたとは考えられません。
③ 日本人は松島と名く
  1901年当時「日本人は松島と名く」島は鬱陵島であり、于山島=鬱陵島、竹島=チェクドと解するのが相当です。


 ところで、後段に「官に納し、以って公然の密貿易を営めり」とあります。
 この「官」につき、朝鮮政府・鬱陵島郡主・日本政府の3種の解釈が可能です。私は鬱陵島郡主への賄賂と解し、大韓帝国という国家の実体は存しなかったとの思いを強くしました。


 Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク

2008/ 1/23 1:19 [ No.16150 / 17395 ] 
投稿者 :  puracyaka2007  
 
take8591さま、こんにちわ。
今、古い投稿を読み返しているところです。
ずいぶん昔の投稿にレスして申し訳ありません。
誰かが同様のレスを付けているかもしれませんが、確認のため投稿します。
『朝鮮開化史』では、朝鮮国の範囲を東経124度12分~130度35分としています。
「于山島=リアンコールド岩」が入り込む余地が無いのは言うまでもありません。


 Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク

2007/ 4/18 19:42 [ No.15527 / 17395 ] 
投稿者 :  Am_I_AHO_1st  
 
ararenotomoさん、こんにちは。Am I AHO です。

 さて、興味深い研究ノートを拝読致しましたが、幾つか気になる点を指摘させて頂きます。

>『朝鮮開化史』のこの記事は、1899年9月23日付『皇城新聞』「鬱陵島事况」の冒頭にある「其(鬱陵島)附屬ノ小六島中デ最著者ハ于山島竹島ナリ」との関連を想起させます。

『朝鮮開化史』を読む限りでは『皇城新聞』との関連は感じないのですが。
 むしろ、『皇城新聞』では于山島竹島を附属の島と記載しているのに反して、『朝鮮開化史』では于山島は附属の島ではなく鬱陵島そのものを指しているように思えますね。

>上記の記事は校正の間に『皇城新聞』を見て書き入れたか、或は共通の資料から引用したものと思われます。

 上記の理由で、この見解には賛同致しかねます。

>「松島ハ竹島ヨリ我近キ方ニアレハ日本ニ属シ」(松島之議二)として領有化を謀った渡邉洪基らが設立した、興亜会の中国語学校で学んだ恒屋盛服が、「松島ハ于山ナリ」と断言した、田邉太一と同じ認識であったことは大変興味深く感じます。

 いえ、着眼点はそこではなく、その後の海軍の調査でしょう。
 現在までの議論の推移を観ますと、太政官指令までは日本が獨島を放棄したことに根本的な異論はないようですが、この認識は当時の内務省、外務省、陸軍(以下「陸軍系の認識」と云う)に共通のもののようです。
 一方で海軍は、独自の調査によって、それまでの竹島を公式に松島と命名します。これによって、日本政府内に一島二名の認識が共存する事態になるのですね。これは、かつて川上氏らが唱え現在は完全に否定されている「島名の混乱説」とは異なり、起源を太政官指令後に行われた海軍の調査によるとする考えです。
 後年、外務省などは海軍の認識に変わって行くのですが、そのことにより、一旦放棄したはずの松島が、和名を失ってりゃんこ島と呼ばれるようになり、1905年の編入に繋がるのです。

>最近、Gerry-Bevers氏は、上記『皇城新聞』の記事「小六島中デ最著者ハ于山島竹島」を「于山島=竹島」と解釈しました。

 現時点で、Gerry-Bevers氏の論には、さしたる興味も湧かないので、関連部分はパスします。

 さて、提示された『朝鮮開化史』と『皇城新聞』の両資料に共通する点があるとすれば、それは何かと申しますと、それは一にも二にも「石島」の記載がないことですね。
 恒屋盛服が図らずも『朝鮮開化史』の中で鬱陵島の別名は「字音相近きに因る」と指摘しているとおり、当時の韓国では、地名は発音が主であって、漢字は借りてきて充てているだけなんですね。
 そうすると、「石島」の可能性はかなり絞られてきます。
 当時は韓国語の標準化は未着手ですから、素直に現地人が「ドクト」と発音した可能性が有力です。しかし一方では、現地に居住していた日本人がソウル言葉(後の標準語=現代の韓国語に近い発音)で「ソクト」と読み、「鼠項島」と書いた可能性もあります。
 また、同時に二つの「石島」が同時期に併存した可能性もあります。
 即ち、韓国人は勅令の「石島」を「ドクト」と受け取り、「字音相近きに因る」獨島と書くこともあった、と同時に、現地の日本人は日本人で適当に観音島を「ソクト」と解釈して「鼠項島」と命名したのかもしれません。

これは メッセージ 15525 ararenotomo さんに対する返信です


 Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク

2007/ 4/22 23:00 [ No.15540 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
take_8591さん、Am_I_AHO_1stさん、コメントを有難うございます。

お二人とも『朝鮮開化史』の于山島は欝陵島と考えておられるので、先ずそれについてお答えいたします。

『朝鮮開化史』「欝陵島」項の冒頭にある欝陵島の位置・沿革・島嶼の記述について句読点を入れて示します。「金崗山ノ一支、東海ニ入ル六十餘里、峙立シテ欝陵島トナル。一ニ蔚陵ト書ス。即チ、古ノ于山國ナリ。後、新羅ニ入ル。別名ハ武陵、羽陵、共ニ字音相近キニ因ル。大小六島アリ、其中著名ナルヲ于山島(日本人ハ松島ト名ク)・竹島ト云フ。」

『朝鮮開化史』の欝陵島島嶼の記述「大小六島アリ其中著名ナルヲ于山島(略)竹島ト云フ」と『皇城新聞』の「其附屬ノ小六島中デ最著者ハ于山島竹島ナリ」との間に、私は関連性を感じます。「大小六島アリ」と「小六島」、「其中著名ナルヲ」と「中デ最著者ハ」、「于山島竹島ト云フ」と「于山島竹島ナリ」とは、非常によく対応します。もし、恒屋盛服が独自にこれを書いたとすれば、その語句や構成が、『皇城新聞』の記事にこれほど似るでしょうか?私は、恒屋盛服は『皇城新聞』を見て書いたか、或は共通の資料から引用した、と考えました。

『朝鮮開化史』の「大小六島アリ」は、『皇城新聞』に「其(鬱陵島)附屬ノ小六島」とあるので、私は「(欝陵島附屬島ニ)大小六島アリ」と取りました。従って、于山島竹島はともに欝陵島の屬島となります。

ただしこの箇所は、欝陵島を含む「(欝陵島群ニ)大小六島アリ」とも取れます。しかしこの場合、「其中著名ナルヲ」の次は「于山島」ではなく、「欝陵島」とすべきでしょう。于山島は附属島の中では著名かもしれませんが、欝陵島を含めれば、「其中著名ナル」には、当然、主島の欝陵島が入るでしょう。「其中著名ナルヲ于山島 - - ト云フ」は于山島が欝陵島の附屬島であるからこそ、言えるのだと思います。

一方、古くから、于山島は鬱陵島と同じ島であるとの説もありました(『新増東國輿地勝覧』の一説)。1882年鬱陵島検察使に任命された李奎遠は、鬱陵島=芋山(于山)島と認識していました(No.3138)。そこで于山島=欝陵島として、欝陵島島嶼の記述を書き換えると「(欝陵島群ニ)大小六島アリ其中著名ナルヲ欝陵島(日本人ハ松島ト名ク)竹島ト云フ」となります。Am_I_AHO_1stさんが言ったように、日本人は欝陵島(竹島)を松島と名付けましたから、正にこの記述はピッタリです。Am_I_AHO_1stさんが「『朝鮮開化史』では于山島は附属の島ではなく鬱陵島そのものを指しているように思えますね。」と述べたのは、このことからと推察します。しかし、『朝鮮開化史』には欝陵島ではなく于山島と書かれています。恒屋盛服は、欝陵島の沿革で「古ノ于山國ナリ」「一ニ蔚陵ト書ス」「別名ハ武陵、羽陵」と記しましたが、そこに于山島の名は出てきません。彼は于山島を欝陵島とは別の島と考えていたと思います。

take_8591さんは、1901年当時「日本人は松島と名く」島は鬱陵島であり、于山島=鬱陵島と解しました。Am_I_AHO_1stさんが指摘したように、海軍は、独自の調査によって、それまでの竹島を公式に松島と命名しました。そして日本政府は、1883年の欝陵島への渡航禁止の通達で「日本称松島一名竹島朝鮮称蔚陵島」という表現を用いました。しかし『朝鮮開化史』は、于山島に対して「日本人は松島と名く」と註記したのであり、欝陵島に対し日本人は松島と云う、といった記述はありません。

于山島に註記された「日本人ハ松島ト名ク」に対して、私は、1878年外務省交信局長田邉太一が述べた「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」を連想しました(No.14932)。両者には、于山・松島という共通の固有名詞があり、「我邦人ノ命セル名ニシテ」と「日本人ハ - - ト名ク」は同じ意味です。さらに『朝鮮開化史』は朝鮮欝陵(蔚陵)島の島嶼として于山島を記しています。従って私は、田邉太一が「古来の松島」を「于山島」と認識していたように、恒屋盛服『朝鮮開化史』は「于山島」を「古来の松島」と認識していたと考えます。

これは メッセージ 15527 Am_I_AHO_1st さんに対する返信です


 Re: 于山島:日本人ハ松島ト名ク

2007/ 4/23 16:36 [ No.15542 / 17395 ] 
投稿者 :  Am_I_AHO_1st  
 
 ararenotomoさん、Am I AHOです。

 『皇城新聞』では、主島の鬱陵島に加えて附属の六島があるように記述されていますが、『朝鮮開化史』では鬱陵島は単独の島ではなく現代風に云えば鬱陵諸島を表すと云えば解りやすいでしょうか。
 つまり、その地域に散在している大小の島々のことを指しているように思えます。
 このことは、日本ではよくあることで、例えば隠岐島が島前島後その他諸々の島々を表すように一般的な表記法と云えるでしょう。
 その為、日本人である『朝鮮開化史』の著者は、鬱陵島を隠岐島のように諸島として書いた可能性を考慮する必要があると思われますし、その上で解読すれば、『朝鮮開化史』で云う于山島とは、この著者は現在の鬱陵島を于山島と解釈したのであり、ここで云う諸島としての鬱陵島と単独の島としての于山島とは諸島としての隠岐島と単独の島としての島前(或いは島後)と同じような感覚で記述したように思えますね。
 古くから日本の人達は、竹島と松島をワンセットとして取り扱って来ましたし、竹島諸島ないしは鬱陵島諸島とも云うべき地理感覚を有していたことを踏まえれば、大いに有り得る話ですね。
* 続き  2007/ 4/23 17:10 [ No.15543 / 17395 ] [#u62247a5]
 投稿者 :  Am_I_AHO_1st  
 
 さて、ararenotomoさんは#15525で、『朝鮮開化史』の著者が1899年まで韓国の内閣補佐官を務め、官報などを取り扱っていたことを指摘しておられますが、その記述に「石島」がないことを#15527で指摘させて頂きました。

 これが何を意味するかと申しますと、恒屋の記述は『皇城新聞』よりも、かつて恒屋自身も携わった『官報』と対比して読まれるべきではないかとする感があります。
 『朝鮮開化史』に記述のない「石島」が何故『官報』には記載されているのでしょうか。
 それは、『朝鮮開化史』に示された鬱陵島に対する地理認識には「石島」が含まれない故に、『官報』には別途「石島」を加える必要があったことを物語っているのではありませんか。

  • 最終更新:2009-03-09 20:46:41

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