15547 田邉太一の「于山」認識

 田邉太一の「于山」認識

2006/ 9/29 23:33 [ No.14932 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 

明治9(1876)年から明治11(1878)年にかけて相次いで出された「松島開拓」の申請に対し、外務省内には「松島」が何処を指すかについて「混乱」があったとされています。しかし、「北澤正誠『竹島考證』1881, 復刻エムティ出版, 1996」をみる限り、当時の交信局長田邉太一には少しも「混乱」は無かったことを示します。

明治9年7月の武藤平學と兒玉貞易の「松島開拓之議」に続いて、浦塩港貿易事務官瀬脇壽人は、明治10年4月に齊藤七郎兵衛の「松島開島願書并建言」、6月に武藤平學の「松島開島之建白」を上申しました。これに対し田邉太一は、「松島ハ朝鮮ノ鬱陵島ニシテ我版図中ナラス」として、この「松島」は鬱陵島との認識を示しました。明治11年8月瀬脇壽人は再び下村輪八郎と齊藤七郎兵衛の「松島開拓願」を上申したので、松島巡島の議論が起り、田邉太一は「松島巡視要否ノ議」(第二十壱号)を纏めました。

「開拓願」の「松島」が鬱陵島と認識していた田邉太一は、松島について次の様に記しました「聞クカ如キハ松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」。松島は、「日本人の命名した名前」から、『隠州視聴合記』『竹島圖説』『竹島考』等に記されている松島と分ります。そして田邉は、この本来の松島は朝鮮蔚陵島に属する于山である、と認識していました。「松島ハ于山ナリ」は高麗史の「一云于山武陵本二島相距不遠風日晴明則可望見」をそのとおりに読み、川上健三氏(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)のように、鬱陵島を本土から見た記事とは読まなかったことを示します。

henchin_pokoider01さん(Nos.988, 1000)は、「松島ハ(略)蔚陵島ニ属スル于山ナリ」の記述より、彼が松島を「現竹嶼」と解釈していたことがわかる、と述べました。しかし、これは「我邦人ノ命セル名ニシテ」を略したからです。この文が入ると、その解釈では日本人は「現竹嶼」を松島と名付けたことになりますが、その様な証拠はありません。

田邉はさらに続けて、「蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ文書往復ノ末永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム此ヲ他人ノ宝ヲ數フトイフ -- 松島断シテ開ク能ワス又開クベカラス其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ況ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ」と巡視そのものに反対しました。

一方、記録局長渡邉洪基の意見の結びは次の様でした「- - 我邦人外国ノ船ニ搭シ韓地ニ至リシトテ韓政府ノ猜嫌ヲ増サントノ過愚ハナキニアラズトイヘトモ該島ニ在ル韓民(縦令官吏アルモ)邦人ト外国人トヲ区別スルノ眼晴モアルマジケレバ断然交隣ノ誼ニ於テハ妨碍ヲ生セサラン亊ヲ信ス」(第二十壱号)。全く田邉とは対照的です。

更に渡邉は、「-- 既ニ竹島日本人行キ葛藤ヲ生セシヲ見レハ其島ヨリ近キ松島ヘハ必ラス行キタル人ナシト云フベカラズ去レハ竹島ト別物ナラハ因隠石等之国ニ帰セサルヲ得ス去レハ是等ノ縣ニテハ知ルベキ筈ナレハ同縣等ニ問合セ松島之属否竹島松島ノ異同ヲ取調フベシ - - 現場ノ有様ト従来之模様トヲ合セテ其真ノボシションヲ定ムベキナリ」(第二十貳号)依然巡視に拘り続けました。これに対し田邉は、もはや敢えて反対はしませんでした。

田邉太一の人物像を「司馬遼太郎『翔ぶが如く』文藝春秋, 1976」から借ります。1874年大久保利通に随行して清国との交渉に臨んだ時のことです。

田辺太一は、号は蓮舟。『幕末外交談』の著者である。
この旧幕臣出身の男は、北京で談判をしている柳原前光以下のたれにくらべても、人物、力量、経験のいずれもがすぐれていたが、旧幕臣であるというだけで、公卿出身の柳原の下僚に甘んじていざるをえないのである。
(中略)
この当時の日本の外交技術者としては、この田辺太一の右に出る者はいなかったであろう。が、かれは旧幕臣という立場もあり、人柄の謙虚さということもあって、つねに派手立った行動をせず、そのためもあって、つねに功を藩閥出身者に譲った。
(中略)
漢文に長じ、仏語をよくし、外交交渉に習熟している上に、国際情勢にあかるい田辺太一の存在は珍重するに足るものであった。ただ、田辺は勇士ではなかった。外交に勇士というものが必要なのかどうかは別として、たとえば清国との交渉において開戦を決意するなどという粗暴さは田辺の持ち味ではない。


 Re: 田邉太一の「于山」認識

2006/ 9/30 20:51 [ No.14935 / 17395 ] 
投稿者 :  Am_I_AHO_1st  
 

>明治9(1876)年から明治11(1878)年にかけて相次いで出された「松島開拓」の申請に対し、外務省内には「松島」が何処を指すかについて「混乱」があったとされています。しかし、「北澤正誠『竹島考證』1881, 復刻エムティ出版, 1996」をみる限り、当時の交信局長田邉太一には少しも「混乱」は無かったことを示します。

 同意します。
 田邉太一は幕臣の時代にヨーロッパへ使節団の一員として派遣されますが、幕府が内戦に敗れると、旧将軍家が持てる人的資源を結集して創設した沼津兵学校の一等教授として招聘されます。
 この沼津兵学校は、特に土木技術や測量技術に優れた多くの人材を輩出しており、彼らはその後内務省地理寮や参謀本部で測量や地図の作製に携っていますね。太一自身は明治政府からの出仕の要請を何度も固辞しましたが、幕僚時代に培った外交官としての貴重な経験と見識を高く評価されており、出仕後は岩倉使節団の欧米視察にも同行するなど活躍しました。
 さて、田邉太一にとってみれば、幕府時代から松島竹島ともに朝鮮領であることを疑問に思わないとしても、全く不思議はありません。
 渡邉洪基も有能な人材であったろうとは思いますが、豊富な経験と知識を持つ田邉と比較するのは可哀相ですね。


 Re: 田邉太一の「于山」認識

2007/ 4/25 17:10 [ No.15547 / 17395 ] 
投稿者 :  take_8591  
 

  明治9年から10年にかけて、「松島開拓之議」「竹島渡海之願」「松島開島願書并建言」「松島開島之建白」等々が申請され、明治政府内で「松島巡視要否ノ議」が興りました。
  ここで「松島」の文言を用いて示された島が、現在の鬱陵島であることに疑いありません。しかし、田辺太一がこの「松島」を、鬱陵島、チェクド、リャンコ島の何れであると考えていたかは確定させようがありません。

  先ず、田辺太一が、松島=鬱陵島と考えていたと仮定します。
  田辺太一は、「松島ハ(略)蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べているところから、于山島=松島=鬱陵島となります。この認識に立ち、「巡視スル豈無益ナラサランヤ」の意見を上申するのは当を得ています。
  尚、田辺太一は、「古の于山国」の様な概念を持ち、それに「蔚陵島」を当てたのでしょう。この様な于山島に係る混乱は、この6年後の高宗実録でも見受けられますから、日本の地理認識と朝鮮の地理認識を摺り合わせすれば、この程度の混乱が生ずるのは当然かも知れません。

  次いで、田辺太一が、松島=チェクドorリャンコ島と考えていたと仮定します。
  この田辺太一の認識は誤りです。松島近隣への誤った認識を持ち、「巡視スル豈無益ナラサランヤ」の意見を上申するのは失当です。係る者の意見の中身を考えることは無益です。


  ①>「開拓願」の「松島」が鬱陵島と認識していた田邉太一は、
  ②>松島について次の様に記しました「聞クカ如キハ松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」。
  ③>松島は、「日本人の命名した名前」から、『隠州視聴合記』『竹島圖説』『竹島考』等に記されている松島と分ります。
  ④>そして田邉は、この本来の松島は朝鮮蔚陵島に属する于山である、と認識していました。
  ⑤>「松島ハ于山ナリ」は高麗史の「一云于山武陵本二島相距不遠風日晴明則可望見」をそのとおりに読み、川上健三氏(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)のように、鬱陵島を本土から見た記事とは読まなかったことを示します。
   この論理展開が良く理解できないのですが・・・・

  ① 「開拓願」の「松島」が鬱陵島と認識していた田邉太一は、
  ② 松島について次の様に記しました「聞クカ如キハ松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」。
  ③ 「日本人の命名した名前」は、「開拓願の松島」と「朝鮮名称于山」を結合させるための導入部と考えられ、『隠州視聴合記』『竹島圖説』『竹島考』等に記されている松島とは当然関係ありません。
  ④ そして田邉は、「開拓願の松島」=「朝鮮蔚陵島に属する于山」であると認識していました。
  ⑤ すると、「松島ハ于山ナリ」は、元禄の外交文書に示される朝鮮政府の解釈を継承し、川上健三氏のように「風日晴明則可望見」を鬱陵島を本土から見た記事と読みとったことを示します。
   という論理展開の方が整合性があると思います。
これは メッセージ 14932 ararenotomo さんに対する返信です  

 Re: 田邉太一の「于山」認識

2007/ 4/28 18:12 [ No.15550 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 

take_8591 さん

「田邉太一の「于山」認識」に対する批判、有難うございます。

>田辺太一がこの「松島」を、鬱陵島、チェクド、リャンコ島の何れであると考えていたかは確定させようがありません。

いいえ、田邉太一は「開拓願」の「松島」が鬱陵島であると確信していました。北澤正誠『竹島考證』(1881)によると、浦潮港貿易事務官瀬脇壽人は、明治9年12月19日に出された齊藤七郎兵衛の「松島開島願書并建言」を明治10年4月25日付で、また、明治10年5月6日に提出された武藤平學の「松島開島之建白」を6月25日付で上申しました。田邉は、齊藤の上申書に対し「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ナラズ斉藤某ノ願意ハ許可スルノ権ナキ旨答フベシ」の附ケ札をしました。また、武藤の上申書には「松島ハ朝鮮ノ欝陵島ニシテ我版図中ノモノナラズ文化年間(arare註:これは記憶違い)既ニ朝鮮政府ト往復ノ書アリト覚ユ我ニテ開墾着手スルハ固ヨリアルマシキ事由ヲ答フル事然ルヘシ - -」との附ケ札をしております。従って、田邉太一は「開拓願」の「松島」をチェクド、リャンコ島とは考えておりません。

>田辺太一は、「松島ハ(略)蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と述べているところから、于山島=松島=鬱陵島となります。

いいえ、蔚陵島は鬱陵島の別名ですから、于山島=鬱陵島とはなりません。

① ② ③ ④ ⑤ は「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」をどのように理解するかの問題と思います。

この地域で松島という名の島は二つだけです。即ち、隠岐と鬱陵島(竹島)の間にある古くからの松島と、1840年シーボルトが鬱陵島に誤って付けた松島です。田邉太一は「開拓願の松島」を鬱陵島と確信していましたから、「松島ハ - - 其実ハ(実際は)朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ」と書き、これだけで、この松島は「古来の松島」と分ります。ただし、「我邦人ノ命セル名ニシテ」を入れたのは、この松島が「古来の松島」であることを更に明確にすると共に、欧米人の誤った松島という名称で、「鬱陵島開拓願」が繰り返し何度も出されたのを、苦々しく思ったからかもしれません。

>④ そして田邉は、「開拓願の松島」=「朝鮮蔚陵島に属する于山」であると認識していました。

いいえ、田邉は、「開拓願の松島」は鬱陵島と確信していますから、「開拓願の松島」=「朝鮮蔚陵島に属する于山」であるとは決して認識していません。田邉にとって松島は、『隠州視聴合記』『竹島圖説』『竹島考』等に記され、日本人が古くから知っていた松島で、それが「朝鮮蔚陵島に属する于山」です。

>⑤ すると、「松島ハ于山ナリ」は、元禄の外交文書に示される朝鮮政府の解釈を継承し、川上健三氏のように「風日晴明則可望見」を鬱陵島を本土から見た記事と読みとったことを示します。

上記のように、「松島ハ于山ナリ」の松島は、鬱陵島ではなく「古来の松島」ですから、「于山武陵本二島相距不遠風日晴明則可望見」で、武陵(鬱陵島)から望み見ることのできる島は、于山即ち「古来の松島」です。

田邉太一は、「松島巡視要否ノ議」で、「蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ文書往復ノ末永ク証テ我有トセサルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム此ヲ他人ノ宝ヲ數フトイフ况ヤ跡隣境ヲ侵越スルニ類シ我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶未全ク除カサルニ際シ如此一挙ヨリシテ再ヒ一隙ヲ開カンコト尤交際家ノ忌ム所ナルベシ - - 松島断シテ開ク能ワス又開クベカラス其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ况ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ」とかなり激しい言葉で「松島巡視」に反対しております。

「明治政府に出仕してからの田辺は常に沈黙無為を旨とし、政府の施政に吾不関焉の態度をとることが多かった」(田辺太一『幕末外交談』平凡社, 1966, 坂田精一「解説」)とされる田邉にしては珍しいことです。田邉は、他国の領土も巡視するだけなら可とする一部の姿勢に、幕末自らが対峙した列強の姿を重ねたのかもしれません。新政府は結局、田邉の「正論」を容れ、「松島巡視」は実行されませんでした。

これは メッセージ 15547 take_8591 さんに対する返信です

  • 最終更新:2009-03-09 20:57:30

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