16028 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

2007/12/ 6 1:54 [ No.16028 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 

‘于山島’はやっぱり独島だった
海洋水産開発院ユミリム博士,朝鮮後期朴世堂が書いた資料発掘
“鬱陵島で正常上がらない于山島が見えなくて”…
‘于山島が鬱陵島’という 日 主張覆して

独島領有権で大きな争点だった「于山島が独島」という事実を立証することができる新しい資料が発掘された。韓国海洋水産開発院独島研究センター責任研究員であるユミリム(柳美林) 博士は最近この開発院が発刊する「海洋水産動向」1250号で「朝鮮後期朴世堂・1629~1703)」が書いた「鬱陵島」を分析した結果、于山島は鬱陵島ではなく独島を指すことが明らかにされた」と述べた。
「独島が元々我が地」だったとする時、その重要な根拠は于山島の存在だった。「世宗実録」地理志に 「于山と武陵 二つの島が蔚珍県の東海の中ある。二つの島はお互いに距離が遠くなくて、天気が晴れれば見られる」と記録している。ここで「武陵」が鬱陵島、「于山」は独島というのが韓国学者たちの解釈だった。
しかし日本学者たちは「新増東国輿地勝覧」の注釈に「于山島と鬱陵島が本来一島だったという説もある」という内容を根拠に、于山島は独島ではなく ①鬱陵島とか ②鬱陵島で東方へ 2㎞ あまり離れた竹島と言う主張をしてきた。
しかしユ博士などが朝鮮後期主要学者中の一人である西溪朴世堂の記録「鬱陵島」を分析した結果は違った。この文は朴世堂の11代子孫が 2001年韓国学中央研究院に寄託した 「西溪宗宅古文書」のなかの「西溪雑録」に載せられている筆写本で、今まで史料の存在が一般に知られていなかった。朴世堂はこの文で船に乗って鬱陵島へ行ってから帰って来た僧侶から伝えて聞いた話を記録しながらこのようにに言及した。
「たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなくて、一度大きい風が吹けば触れることができるくらいだ。于山島は地勢が低く、天気が非常によくないとか、最高頂上に上がらなければ (鬱陵島で) 見えない(不因海気極清朗,不登最高頂,則不可見).」
この記録は ①「于山島」は確かに鬱陵島のような島ではないという事実と、②竹島や観音島のように鬱陵島と接した島でもないという事実を立証している。竹島・観音島は鬱陵島で高く上がらないとか天気が曇っても肉眼で見られる島だからだ。そうだったら「于山島」になることができる島は独島しかにない。
これは朴世堂と同時代人物である三陟營將張漢相(1656~1724)が書いた「鬱陵島事蹟」で「(聖人峯で) 東に海を眺めたら東南の方に島一つがかすかにあるのに、大きさは鬱陵島の3分の1にならないほどで、距離は 300里余にならない」と言う記録とも通じるとユ博士は説明した。朴世堂と張漢相は皆日本側から独島が朝鮮地という確認を受けた肅宗の時の漁夫安龍福と同時代の人物という点でこれらの認識はもっと重要な意味を持つというのだ。これに対してシン・ヨンハ梨花女大碩座教授は「初めて発掘されもので、独島が私たちの地だったのを明らかにする非常に重要な資料”と述べた。

朝鮮日報


 Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

2007/12/ 6 2:11 [ No.16029 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 

この文書と同じと思われる記述が”臥遊録”にあります。
到寧海地面云盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見麋鹿態獐往往越海出來朝日纔高三丈則島中黄雀群飛來接竹邊串

 私は専門家ではないのであまり自信はありませんが一応私の見解を述べさせていただきます。
 この文章の最も重要なポイントは”去此”の”此”が何を指しているかだと思います。朝鮮日報の記事には”たいてい二つの島(鬱陵島と于山島)があまり遠くなくて一度大きい風が吹けば触れることができる位だ. 于山島は地勢が低くて, 天気が非常に清くないとか最高頂上に上がらなければ (鬱陵島で) 見えない.”とあってあたかも 二つの島(鬱陵島と于山島)の間のお互いの距離が遠くないと理解した上で、鬱陵島から于山島が見えると解釈しているように思えます。”鬱陵稍峻風浪息則尋常可見”は于山島から鬱陵島が見えると解釈しているのかもしれません。要するに世宗実録地理誌の韓国側解釈と同じですね。
しかし”到寧海地面云盖二島去此不甚遠”を書き下し文にしてみると”寧海地面に到りて云う盖(がい)二島は此(ここ)を去ること甚だしくは遠からず”現代文に訳すと”寧海に到着して言うには、二島はここからたいして遠くはない。”となります。これを素直に読めば寧海(寧海は朝鮮半島の地名)と二つの島(鬱陵島と于山島)との間の距離が遠くないと言っているように私には思えます。
 ”到寧海地面云盖二島去此不甚遠”が朝鮮半島と二つの島の関係について述べているのであれば、後ろの文章”于山島勢卑云々”も半島と二つの島との関係について述べていると解釈するのが妥当ではないかと考えます。一番最後の文”島中黄雀群飛來接竹邊串(竹邊串は朝鮮半島の地名)”も明らかに朝鮮半島と二つの島の関係について述べたものです。
となると”于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見”は朝鮮半島から于山島と鬱陵島の両方が見えると考えていたということになります。もし鬱陵島から于山島を見たのであれば”鬱陵島から見た”と明示されていないのは文章としておかしいとと思います。結果的に下條教授の世宗実録地理誌の解釈と同じになります。
 ちなみに朝鮮半島から于山島が見えると書いてある文献は他にいくつかあります。
玉川先生文集卷之七 關東録
發向三陟。登葛峴望海。人言雨霽天晴時。可辨海中島嶼若鬱陵于山之屬云。
 海東繹史 續集 地理考 14 山水 2
ここで再び東南方へ行ってから折れて西南方へ 100里に行くと蔚珍城の東を通るようになるのに,その東南の方海向こうには千山島 -ご遠慮よく見るが于山島にならなければならない.-行っていて,菀陵島とも言う
眉叟記言 淸士列傳 金時習
また東で引き返して楓嶽山・五台山に上がって東海最後まですべて見物した後越松亭に遊び歩いて鬱陵于山島を眺めた.

 


 Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

2007/12/ 6 2:34 [ No.16030 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
続きです。

韓国人の学者は于山島と鬱陵島の両方の記述のある文献があると于山島は竹島=独島であると早合点してしまいますがこれは正しくありません。例えば「朝鮮地圖帖・江原道」という地図
には、
”于山島在三陟之東鬱陵島在平海之東六日程地”
とあります。三陟は平海の北に位置しているので于山島は鬱陵島の北にあると認識されていたようです。一方竹島=独島は鬱陵島の東南に位置しているのでこの于山島が竹島=独島であるはずはありません。
この”于山島在三陟之東鬱陵島在平海之東六日程地”は17世紀後半から19世紀後半までの複数の地図・地誌に同じ記述が載っています。
さらに下のぺージの上から三番目の地図を見ると、
于山島が鬱陵島の西にありますが鬱陵島は蔚珍と航路を示す線で結ばれているのに対して于山島は蔚珍の北に位置している三陟と航路を示す線で結ばれています。これもやはり当時于山島が鬱陵島の北にあると認識されていたと解釈できます。


 Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

2007/12/ 8 13:08 [ No.16036 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
No.16029の投稿
の朝鮮日報の「西溪雑録」・「臥遊録」の解釈について若干修正させていただきます。


修正前

”寧海地面に到りて云う盖(がい)二島は此(ここ)を去ること甚だしくは遠からず”現代文に訳すと”寧海に到着して言うには、二島はここからたいして遠くはない。”

修正後

”寧海地面に到れりと云う蓋(けだ)し二島は此(ここ)を去ること甚だしくは遠からず”現代文に訳すと”寧海に到着したと(僧侶が)言った。(私=朴世堂の推測では)恐らく二島はここからたいして遠くはない。”

この修正についての解説はややこしいのでここでは省略しますが、興味のある方は下のページの最初のコメントを読んでください。



 于山島はやっぱり独島

2007/12/21 22:22 [ No.16054 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

朴世堂『西溪雑録』と『臥遊録』「欝陵島地誌」の紹介を有難うございます。

『臥遊録』の「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘入日本丙午隨倭船至欝陵島」の記述に大変興味があります。「嘗って一人の僧に遇ったが、彼は壬辰之亂で日本に連行された俘(の子孫?)と自稱し、丙午の年、倭船に隨い欝陵島に至った」と書かれています。

朴世堂(1629~1703)が存命中の丙午は1666年です。この年は池内敏氏の「近世日本人の朝鮮漂着年表」(『近世日本と朝鮮漂流民』臨川書店, 1998)によると、米子の商船が「いそたけ」へ渡海し戻る途中で漂流し、3艘のうち2艘が行方不明になった、とされています。さらに川上健三氏の『竹島の歴史地理学的研究』(古今書院, 1966)には、寛文6年は大谷家の番で、13反帆の船2隻に50名が乗組み4月6日隠岐出帆、同8日竹島着、竹島で15反帆の船1隻を作り、3隻に分乗して7月3日帰路についたが、途中暴風にあって遭難し、新造の15反帆の船だけが朝鮮に漂着し乗員21名が救助された、とあります。

非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。『臥遊録』には「鄰船適有同俘七人夜與相語」と記されているので、彼には少なくとも7人の仲間がいたと思われます。「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。

「壬辰之亂の俘」と自称する人たちが、欝陵島周辺海域に住み着き欝陵島と往来していたことは極めて重要と思います。彼らは、欝陵島にかなりの長期間滞在し、大谷・村川両家の渡海事業とも関わり合いを持っていたかもしれません。「倭方伐竹採藥留渠守船」は、倭人と接触があり、実際に近くで見ていなければ書けないでしょう。

倭船に隨い欝陵島に至った僧は、松島を経由して来たと考えられます。従って、松島も彼にとっては甚だ遠い島とは思わなかったでしょう。「盖二島去此(寧海)不甚遠一ハン(馬偏に風)風可至」欝陵島も于山島=松島も「ひとたび風に乗れば至ることができる」と認識していたに違いありません。

この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。特に、欝陵島内陸部は「- - 登岸則白沙平鋪 - - 江水流出縁江行十餘里則ウンタウ(竹の名)作藪 - - 又穿藪行十餘里則有竹林 - - 竹林既窮而原野夷曠有村居墟落 - -」と詳しく踏査したことが分かります。「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」は、yabutarou01さんが的確に訳された通り、欝陵島からは「于山島は標高が低くて天気が非常によい時に標高の最も高いところまで登らなければ見ることができない」ですから、彼は実際の経験に即して語ったのでしょう。

また、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。

日本側の資料によれば、竹島は元禄5(1692)年に多数の朝鮮人と出遭うまで、無人の島とされてきました。しかしそれ以前にも、朴世堂がこの『西溪雑録』で述べたような、日本の資料には決して記録することの出来なかった、友好的な交流があったと思われます。


 Re: 于山島はやっぱり独島

2007/12/23 10:51 [ No.16055 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
ararenotomoさん、

 >>「壬辰之亂の俘」と称したのは朝鮮社会で生き抜くための偽称でしょう。彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡ったのかもしれません。

 たしかに当時鬱陵島に行くことは国禁であり、朝廷にばれたら処罰されてしまいますから、偽称である可能性はあると思います。朴世堂も「自稱壬辰之亂俘入」と「自稱」という微妙な表現を使っていることを考えると僧侶の言葉を額面通り受け取っていなかったのかもしれません。

 >>非常に大胆な推測ですが若しかすると、この僧は行方不明になったとされる船で欝陵島へ来たのかもしれません。

 むう。。これは非常に大胆な推測と言うより荒唐無稽な話のように思います。ararenotomoさんが「彼らは竹島が物産豊富な島と聞き、自主的に竹島へ渡った」とお書きになったのは行方不明になった船で朝鮮半島から鬱陵島に渡ったという意味でしょうか。行方不明になった船は隠岐から鬱陵島に渡って隠岐に戻る途中で行方不明になったわけですからその可能性はありません。
 それに私は行方不明になったとされる船は朝鮮に漂着した事実も自力で日本にたどり着いた事実もないからこそ行方不明になったとされているのだと思います。行方不明になったとされる船は乗員もろとも海の藻屑と消えてしまったというのが常識的な判断だと思われます。朴世堂に鬱陵島の話を語ったのはこの世に未練を残しつつ溺死してしまった僧侶の亡霊だったのでしょうか。。。

 >>この僧は欝陵島や于山島を知悉しているように見えます。

 『西溪雑録』で于山島について言及している箇所は朴世堂が自らの見解を述べている箇所であり僧侶が于山島について何らかの知識を持っていたと判断できる箇所はありません。これは決して私の我田引水的な解釈ではありません。朝鮮日報日本語版の記事には、

  
   朴世堂は船に乗り鬱陵島に行ってきた僧侶から伝え聞いた話を記録し、次のように述べている。 「大体、2島(鬱陵島と于山島)はさほど離れておらず、1度大きな風が吹けばぶつかってしまうほどだ。(以下略)


とあります。これは韓国の学者も「盖二島去此不甚遠」以降は朴世堂が自ら述べている箇所であり僧侶から伝え聞いた話の内容ではないと判断しているということではないでしょうか。

 >>「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」即ち「オオジカや鹿や熊やノロが時々海を越えて出で来る」は、朝鮮半島から140kmも離れた欝陵島に、これらの動物が海を越えて来るとは、本来あり得ないことです。しかし欝陵島は、朝鮮本土に近く、自分たちが頻繁に往来していることを、示したかったのかもしれません。

 むしろ朝鮮半島と鬱陵島との間の距離を鹿や熊が渡ってこれる程度の近い距離にあると勘違いしていたと判断すべきです。これは「盖二島去此不甚遠」以降は確実な情報をもとに書かれた文章ではないことを示唆しています。


 Re: 于山島はやっぱり独島

2007/12/23 11:38 [ No.16056 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
続きです。

こちらが『西溪雑録』の原文のdjvuファイルです。



 これを見れば「遇一僧自稱壬辰之亂」以降は一段下げて書かれていて、これより前が本文であってこれ以降が本文についての補足説明であることが分かります。
 本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では
于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中三峯及業掌空南峯梢卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴々可見風便則二日可到一説干山鬱陵本一島地方百里
にあたる部分が、『西溪雑録』では
鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌業撑空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰攢靑岩壑呈露沙汀樹木歴歴可指
になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。
 私の推測では朴世堂が『西溪雑録』を書いた当時『輿地勝覧』の記述を一島説に改変した地誌が存在していてこれを彼は『西溪雑録』に記載したものの、彼自身は二島説が一島説に変化したのは鬱陵島は標高が高いために朝鮮半島からよく見えるが于山島は標高が低く朝鮮半島から見て存在が確認しにくいためと考え「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」と補足の説明を加えたのではないかと思います。
 それに『西溪雑録』が完成した時代(恐らく1696年から1703年の間)の鬱陵島の地図には鬱陵島の北東にある竹嶼に、「大于島」・「大干島」と于山島を連想させる表現が使われています。
 

これは当時の李朝の朝廷では竹島=独島は于山島とは見なされていなかったことを意味しているのではないでしょうか


 〆廉露・・〇仝呟`蜍u々噐表講は防講

2007/12/31 21:26 [ No.16071 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

〆廉露・・〇についての・苧を嗤・うございます。

〆廉露・・〇についてyabutarou01さんは肝に・に菩「・譴泙靴拭まbr>・仝囑匯筆徭佼班浬岻【々參週は匯粁和げて菩「・譴討い董△海譴茲蠻阿・称弔任△辰討海賻埆気・称弔砲弔い討倫a怎・苧であることが蛍かります。
・云猟にあたる・侭をよく・むと1530定撹羨の〆仟沿翻忽・仇・rE〇とほとんど揖じ坪否であってっているのは〆・仇・rE〇では仝噐表講鹵相講匯堝冷相匯堝嚼相屈講壓・屎翻今嶄眉腔式露嫺腎掴腔敏碓韲晩賠苧д腔軆倪ツ昭杏集劜割序s?辛刪韲宴д屈晩辛欺匯・孤表鹵相云匯講仇圭為戦々にあたる何蛍が、〆廉露・・〇では仝鹵相講鹵相賜垰冷相呀垰嚼相鞠互李岻眉桁瓰露嚇腎遇掴桁不詰晩兜竃瓶韲厄惜詢д六桁楳詒冫柆格其紐諭倪ツ序s嘖辛峺々になっている侭だけです。つまり〆・仇・rE〇では噐表講と鹵相講について屈講・と匯講・とを≫r宸オていたのが〆廉露・・〇では匯講・のみに俄ケ・靴討い襪里・錣・蠅泙后まbr>
yabutarou01さんが峺姜されたように、〆廉露・・〇仝呟`蜍u々の恷兜の何蛍は〆仟沿翻・ロ寞w・rE〇とほとんど揖じ坪否で、っているのは丹軆の呟`蜍uの・苧です。個佩して菩「・譴拭桁L囑匯筆徭佼班浬岻【拳々參週の猟嫗は、念の云猟についての・怎・苧というよりは、鏡羨の嫗として筆からの℃aр;・したものと房います・No.16065・。そして、酉弊銘は筆あるいは呟`蜍u局砂宀から曹いた嚼によって、〆仟沿翻・ロ寞w・rE〇の甫b舛△襪い浪師・_な・並を・屎しました。

酉弊銘は、〆廉露・・〇仝呟`蜍u々の丹軆で、仝呟`・- - 鞠互李岻々と互く鞠り岻・呟`蜍u・を李めば仝眉桁キフゲフ・キフ表の和に式とゲフ表の和に露・表の蜻しく互き嘆・- - 掴桁不詰々と、互侭から刪た呟`蜍uの仇侘を・苧しています。肝に、仝晩兜竃瓶韲厄惜詢д六桁覇楳冫柆格其紐諭倪ツ序s嘖辛峺々と、〆・仇・rE〇の仝韲晩賠苧д腔軆倪ツ昭杏集劜割序s嘖辛刪々の何蛍を囃峰し、恷瘁に呟`蜍uの互侭からは仝紐諭倪ツ勝垢・堅s嘖辛峺々峺さして幣せるほど苧らかに刪える、と錠んでいます。この恷瘁の何蛍は〆・仇・rE〇の仝腔軆倪ツ昭杏集劜割序s嘖辛刪々に・輝しますが、〆・仇・rE〇は採Иから刪たかを菩「・覆・辰燭里如△海譴漏・r云輿から刪た呟`蜍uの徊との盾・も伏れました。しかし140kmも・れた云輿から、呟`蜍uの腔軆の倪ツ召簓集銈良割召・s嘖と刪えるはずはありません。匯圭、〆廉露・・〇の呟`蜍u仇─C林尓ヘ楼めて醤悶議で、〆・仇・rE〇に曳べ、はるかに措く尖盾できます。

噐表講については〆・仇・rE〇では仝孤表呟`蟇紹・u々とする匯講・も≫r宸オております。しかし、酉弊銘は呟`蜍u局砂宀の嚼を曹き、泳らは孤表講と呟`蜍uを・?の講と幀懿していることを岑り、仝匯・孤表呟`蟇紹・u々を・茅しました。また、瘁でもっと囃しく峰べているので、仝屈講壓・屎翻今嶄々や仝韲宴д屈晩辛欺々も・茅しました。

酉弊銘は、筆からの℃aрニして、噐表講を仝堝固屈講・噐表と呟`蝪・ゴ鵬刺・h匯ハン・鶯陶に韲・韲辛崛噐表講─P芦子鮑・癘O彈席音鞠恷互・д音辛刪々とさらに囃しく・峰しました。この・峰からは、噐表講は晩云繁が各する防講を峺しているとしか深えようがありません・No.16054・。

噐表講は呟`蜍uの翻2 kmにある幢Z・Chukdo・を峺すこともあります。しかし幢Zは、劾・云輿からは畠く刪えず、呟`蜍uからは、爺圈C・燃・砲茲srでなくとも、また、・W澆臨遒盡澆い箸海蹐泙乃任蕕覆・箸癲・鰍驍アとの竃栖る講ですから、この噐表講が幢Zを燕しているとは房えません。

酉弊銘は謹くの繁から呟`蜍uの秤一C鮗・瓩燭任靴腓Α・修琳个波娜照砲繁爾靴①姑紐瞬・yの拳・の徨薫・・々と徭各する筆をインフォマントとして恷も互く嘖・C掘◆採・・j・〇仝呟`蜍u々で匯嫗を護き掲械に囃しく泳の嚼を・・したことを、寄俄テd龍侮く湖じました。

  • 最終更新:2009-03-10 02:13:42

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