16058 朴世堂「欝陵島」への下條正男氏の見解

 Re: 于山島はやっぱり独島日本の主張覆して

2007/12/26 2:32 [ No.16058 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
Web竹島問題研究所に朝鮮日報の朴世堂の「欝陵島」の記事についての下条正男氏の見解が載っています。


下条氏は「天將曉發船以來日纔已到寧海地面」の部分について「(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。」と説明しています。

私は
で「夜明け前に船を出発させたが、翌日午後三時になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。」と訳しましたが、「翌日午後三時に」の部分は「当日午後三時に」の誤りでした。訂正します。

これは朴世堂が朝鮮半島と欝陵島との間の距離を実際よりもかなり近い距離にあると認識していた可能性を示唆しているのではないかと私は考えます。


 朴世堂「欝陵島」への下條正男氏の見解

2007/12/26 23:55 [ No.16059 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

朴世堂『西溪雑録』「欝陵島」の記事についての下條正男氏の見解の紹介を有難うございます。

>下条氏は「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」の部分について「(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、半日の航程と語ったからだ。」と説明しています。
>私は「夜明け前に船を出発させたが、翌日午後三時になったばかりのころにはもう寧海に着いたと語った。」と訳しましたが、「翌日午後三時に」の部分は「当日午後三時に」の誤りでした。訂正します。

これはyabutarou01さんの最初の訳が正しいと思います。下條氏は「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」としています。しかし、私は「天将に暁にならんとするとき船を発し、以って、来日(翌日)わずか■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と解釈します。来日は来月・来年と同意でしょう。

私はyabutarou01さんが難しい漢字の多い「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」を見事に訳されたことに感心しておりました。『西溪雑録』の見解に対し、後ほどゆっくりと答えさせていただきます。


 Re: 朴世堂「欝陵島」への下條正男氏の見解

2007/12/27 23:09 [ No.16061 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
ararenotomo さん

 >>これはyabutarou01さんの最初の訳が正しいと思います。下條氏は「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」としています。しかし、私は「天将に暁にならんとするとき船を発し、以って、来日(翌日)わずか■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」と解釈します。来日は来月・来年と同意でしょう。
私はyabutarou01さんが難しい漢字の多い「天將曉發船以來日纔ホ(日編に甫:日暮れ)已到寧海地面」を見事に訳されたことに感心しておりました。


私の翻訳は2ちゃんねるにあった自称漢文専攻の院生氏の書き込みを参考にしたものです。

院生氏の書き込みにはこのようにありました。

「天まさに暁ならんとして発船す。来日の纔かに晡なるを以て、すでに寧海地面に到ると云う。けだし二島ここより去ること甚だしくは遠からず、一の■風にて至るべし。于山島は勢ひくく、海気の極めて清朗なるに因らず、最高頂に登らずば則わち見るべからず。鬱陵は稍や峻にして、風浪やめば則ち尋常に見ゆべし」夜明け前に発船した。翌日夕方になったばかりにはもう寧海に着いたとのこと。というのは、于山・鬱陵の二島はここ(多分寧海)から遠くなく、一度の大風で到達できるのだ。于山島は低いので、天気極めて晴朗か山の頂上に登らないと見えない。
鬱陵はやや険峻なので、風浪が無ければ普通に見える。

「けだし」は、朝出て夕方前に寧海に到着するわけを説明することば。この「けだし」を「総じて」と訳すのは誤訳。「蓋」が「総じて」になるのは文章全体の初めに置く場合だけ。「相去」だと、寧海到着の話と無関係の話題になり、繋がらない。
後ろに「麋鹿熊■、往往越海出來」麋鹿熊■、往往にして海を越えて出来す。とある。ぎりぎり望見できる距離を動物が泳ぎ渡るのは驚きだが、それは「相去」でも「去此」でも驚きとしては同じだが、「出来」は二島のどちらかに泳ぎ渡るんじゃなくて、こちら寧海に泳ぎ出てくるという意味。つまり寧海まで遠くないという文脈に繋がってる。でその前後文の間で突然無関係に「二島間の距離」の話になるのは通じない。

鬱陵島は寧海から見え易いが、于山島は少々見えにくいということ。どっちにしろ寧海から近いという話題。

「来日」は夜明け前から見て明けた日のこと。一応翌日と呼んでもいいが、要するにその日。

「蓋」以下は過去の地誌に基づく記述で、僧侶の話は「云」まで。で>>730の漢文では「去此」となってて、朝鮮半島からのこととなってるね。朝鮮半島から鬱陵は晴れの日に見えるそうだ。
歴代の地誌の記載で「可望見」というのは二島が寄り添う様が半島から見えるとも解釈できるし、二島が互いにぎりぎり視界に入る距離だとも解釈できる。つまり「相去」の場合は解釈確定は難しい。「去此」ならば半島からだと確定できる。

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私はこの書き込みを呼んでから最初の見解修正を行いました。これによると「来日」は夜明け前から見て明けた日とあり、「天將曉」とは夜明けの直前という意味ですから夜が明けて日暮れ少し前になってもまだ「当日」であるという解釈が可能になります。恐らく院生氏は「来日」の本来の意味は「After the sunrise」であり「in the next day」という訳 はここから派生したものと解釈していると思われます。
ただ「来日」は一般的には「らいじつ」と読んで明日という意味 に解釈されていますから、私は当たり障りのないように「翌日」と訳しました。
しかし『西溪雑録』の記事には「已到寧海地面」と「已(すでに)」という文字があり僧侶が鬱陵島と寧海との距離が近いと認識しているのは明らかにもかかわらず「当日」ではなく「翌日」と訳してしまうと近いというニュアンスが伝わらないので不満でした。
このような経緯があったため下条氏が半日の航程と解釈しているのを目にして「当日」でも差し支えないと判断して二度目の見解修正で「翌日」を「当日」に変更しました。どちらが正しいのかは率直に言ってよくわかりません。この判断は私の能力の範疇を超えていると言わざるを得ません。。

まあなんと言うか漢文の読解とは灯りをつけずにすり足で夜道を歩くようなものでとっても難しいものがあります。。。


 朴世堂「欝陵島」下條氏見解への異見

2007/12/31 21:20 [ No.16070 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

yabutarou01さんが、下條氏の「半日の航程」とした解釈によって、欝陵島と寧海との距離を最初の「翌日」から「当日」に変更した経緯はよく分かりました。2ちゃんねらー自称漢文専攻の院生氏も「天將曉發船以來日纔ホ(日偏に甫:日暮れ)已到寧海地面」を「夜明け前に発船した。翌日夕方になったばかりにはもう寧海に着いた」と、初めは「翌日」と正しく訳しました。ただし後で、「「来日」は夜明け前から見て明けた日のこと。一応翌日と呼んでもいいが、要するにその日。」と解釈しなおしたようです。しかし、太陽が出たとたん日付が替わるわけではありませんから、その日に着いたのなら、「以其日纔ホ(日偏に甫)已到 - -」と書くはずです。

下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、「發船以來日」を「発船以来、日」と解釈しました。即ち、「来日」(今より後に来る日。あす。『広辞苑』)という熟語を無視しました。そして「半日の航程」としたわけですから、これは明らかに誤読でしょう。

下條氏は、朴世堂に欝陵島のことを話した僧侶は、「文禄の役で捕虜」となり、「丙午(1606年)の年、日本船で朝鮮に送還され、欝陵島を経由して半日で慶尚道の寧海に着岸していた。」としています。しかし私は、朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます(No.16054)。

朴世堂は「自稱壬辰之亂の俘」である僧から聞いた話を基に欝陵島のことを記しました。この僧は特に、欝陵島の自然地理に関して詳しいように見えます。恐らく欝陵島にかなりの長期間滞在し、欝陵島とは何回も往来していたと思われます(No.16054)。従って、yabutarou01さんが述べられたように、僧侶が、「半日の航程」と思っていたかはさて措き、欝陵島と寧海との距離が近い、と認識しているのは明らかです。ただし、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」は勇み足でしょう。これを除いて、朴世堂の記述は殆んど間違ってはいないと思います。

なお、「麋鹿熊シヤウ(獣偏に章:ノロ)徃徃越海出來」に関して、前提の院生氏は、「「出来」は二島のどちらかに泳ぎ渡るんじゃなくて、こちら寧海に泳ぎ出てくるという意味。」としていますが、海洋島と見做せる欝陵島に大型哺乳類は棲んでいません。

下條氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文した」と書いています。朴世堂は、確かに下條氏が云われるように、『東國輿地勝覧』の記事に加えて僧侶や欝陵島渡航者の伝聞から『西溪雑録』「欝陵島」を書きました。その記事は当時としては出色の豊富な情報量を盛り込んでいるように見えます。そして朴世堂は、『新増東國輿地勝覧』の曖昧な記述を、もっと明瞭な表現に改めたことを、次に示します。


 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

2008/ 1/ 1 22:50 [ No.16073 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

『西溪雑録』についての説明を有難うございます。

『西溪雑録』についてyabutarou01さんは次に様に書かれました(No. 16056)。
>本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では「于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中 - - 一説干山鬱陵本一島地方百里」にあたる部分が、『西溪雑録』では「鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 - - 沙汀樹木歴歴可指」になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。

yabutarou01さんが指摘されたように、『西溪雑録』「欝陵島」で柳美林氏が四部に分けた(No. 16065)最初の章は『新増東國輿地勝覧』とほとんど同じ内容で、違っているのは欝陵島についての冒頭の説明です。

朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。一方、『輿地勝覧』は何処から見たかを書かなかったので、これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿との解釈も生れました。しかし140 kmも離れた朝鮮本土から、欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずはありません。

于山島については『輿地勝覧』では「干山欝陵本一島」とする一島説も併記しております。しかし、朴世堂は欝陵島渡航者の話を聞き、彼らは干山島と欝陵島を別々の島と認識していることを知り、「一説干山欝陵本一島」を削除しました。また、後でもっと詳しく述べているので、「二島在縣正東海中」や「風便則二日可到」も削除しました。

朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません(No. 16054)。

于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。

朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。


 Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

2008/ 1/ 2 0:08 [ No.16075 / 17395 ] 
投稿者 :  ahirutousagi2  
 
横から失礼いたします。

>次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。

鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。

そうでもないのでしょうか。

ちなみに、朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。文章がどう読めるか。その一点が問題かと。


 『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていない

2008/ 1/10 22:00 [ No.16124 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
ahirutousagi2さん

早速のコメントを有難うございます。

>鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。

『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島」冒頭の欝陵島に関する記述は、「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低 - - 沙汀樹木歴々可指」として、「登高望之」以下の文で欝陵島の自然景観を説明しています。問題は「登高望之」がどこまで係るかですが、私は最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈しました。

「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。もちろん、「登高望之」は「- - 南峯稍低」までに係り、「日初出時 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観とみることは可能です。

>朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。

朝鮮半島から欝陵島を見たとする所説は、『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」「于山・武陵の二島は相去ること遠くなく風日清明ならば望み見ることができる」との解釈を否定するために、川上健三氏によって提唱されました(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。

川上氏は次のように書いています:『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。(中略)これをさらに裏付けるのが『輿地勝覧』の記事である。同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。

>「文章がどう読めるか。その一点が問題かと。」

全く同感です。そこで、『新增東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。

18世紀中頃の地理書である李重煥著平木實訳『択里志』(平凡社東洋文庫751, 2006)の「鬱陵島は江原道の三陟府の海中にある。晴れた日に高い所に登って眺めると、雲のようにみえる。」が実際に近いかと。

金正浩は『大東地志』(1863)に「鬱陵島在本縣正東海中(中略)自本縣天晴而登高望見則如雲氣」と書いていることが、yabutarou01さんによって紹介されています(No.16089)。金正浩は「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」を『択里志』から択んだのでしょう。


 Re: 『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていな

2008/ 1/10 22:51 [ No.16126 / 17395 ] 
投稿者 :  ahirutousagi2  
  
>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。

この部分は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。つまり、峰々が青く群がり岩谷が露呈しているという理解です。遠くから見て、青い峰々が見え、そして岩谷までも見えているさま[岩谷は文字通り岩や谷]。

別段、上から見る必要もありません。また「日初出時風恬浪靜則」から考えても、違和感はありません。むしろ、上から見ると理解するのは相当に不自然です。

>同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。

正しい記述だと思います。

>『新增東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。

繰り返し申し上げますが、今現在の理解で本土から見てどうであるとか、この描写は現実に即している、というのは、無意味だと言うことです。遠く離れた鬱陵島を望見した状況の描写とは見えない、というのは、単に、貴殿の主観に過ぎません。

見える見えないはどうでもよいのです。文章をそのままに理解すればそれでよろしいかと。実際に、当時の人々にとって鬱陵島は現在ほどに明確に具体像を把握されていた島ではありませんでしたし、ましてや、于山島はまったくの不明の島であったとすべきでしょう。

  • 最終更新:2009-03-10 02:23:38

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