16073 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

2008/ 1/ 1 22:50 [ No.16073 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

『西溪雑録』についての説明を有難うございます。

『西溪雑録』についてyabutarou01さんは次に様に書かれました(No. 16056)。
>本文にあたる箇所をよく読むと1530年成立の『新増東国輿地勝覧』とほとんど同じ内容であって違っているのは『輿地勝覧』では「于山島鬱陵島一云武陵一云羽陵二島在県正東海中 - - 一説干山鬱陵本一島地方百里」にあたる部分が、『西溪雑録』では「鬱陵島鬱陵或曰武陵亦曰羽陵 - - 沙汀樹木歴歴可指」になっている所だけです。つまり『輿地勝覧』では于山島と鬱陵島について二島説と一島説とを併記していたのが『西溪雑録』では一島説のみに変化しているのがわかります。

yabutarou01さんが指摘されたように、『西溪雑録』「欝陵島」で柳美林氏が四部に分けた(No. 16065)最初の章は『新増東國輿地勝覧』とほとんど同じ内容で、違っているのは欝陵島についての冒頭の説明です。

朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。一方、『輿地勝覧』は何処から見たかを書かなかったので、これは朝鮮本土から見た欝陵島の姿との解釈も生れました。しかし140 kmも離れた朝鮮本土から、欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずはありません。

于山島については『輿地勝覧』では「干山欝陵本一島」とする一島説も併記しております。しかし、朴世堂は欝陵島渡航者の話を聞き、彼らは干山島と欝陵島を別々の島と認識していることを知り、「一説干山欝陵本一島」を削除しました。また、後でもっと詳しく述べているので、「二島在縣正東海中」や「風便則二日可到」も削除しました。

朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません(No. 16054)。

于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。

朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。

これは メッセージ 16070 ararenotomo さんに対する返信です


 Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

2008/ 1/ 3 13:52 [ No.16079 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
ararenotomoさん


新年早々ご苦労様です。ararenotomoさんはあくまでも于山島は竹島(独島)であると主張されていますが、ararenotomoさんの主張にはいくつか疑問があります。


 >>下條氏は、「天将に暁にならんとし、発船以来、日わずかに■(にちへんに甫)(日暮れ)、すでにして寧海の地面に到る」(暁の空になろうとする頃に欝陵島を出発し、日暮れ少し前に寧海に到った)と、「發船以來日」を「発船以来、日」と解釈しました。即ち、「来日」(今より後に来る日。あす。『広辞苑』)という熟語を無視しました。そして「半日の航程」としたわけですから、これは明らかに誤読でしょう。

 確かに「来日」という単語は存在しますが、「以来」という単語の方がよりメジャーですから「發船以來・日」と分けるべきか「發船以・來日」と分けるべきか私にはよく分かりません。いずれにせよ寧海と鬱陵島との間が近いということであって、半日か一日半かは本質的な議論ではありませんね。


 >>朴世堂は、「欝陵或曰武陵 - - 登高望之」と高く登り之(欝陵島)を望めば「三峰キフゲフ(キフ山の下に及とゲフ山の下に業:山の険しく高き貌)- - 南峰稍低」と、高所から見た欝陵島の地形を説明しました。次の「日初出時風恬浪靜則 - - 青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」は、『輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」に相当しますが、朴世堂は、欝陵島の高所から眼下の「沙汀」の「樹木」が「歴々可指」指さして示せるほど明らかに見える、と結びました。

 ararenotomoさんは欝陵島の高所から鬱陵島の低所にある「衆峰攢青岩壑呈露沙汀樹木」を見たと解釈されていますが、私はそうは思いません。「風恬浪靜則 可指」(風がおだやかで波が静かならば 見える)という文言があります。これは水平線の間際に鬱陵島があるので波が高いと波が邪魔で見えないということであり、海を隔てたどこかから鬱陵島を見たとしか解釈できません。欝陵島の高所から眼下の「衆峰攢青岩壑呈露沙汀樹木」を見たのであれば波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。


 >>朴世堂は、僧からの伝聞として、于山島を「云盖二島(于山と欝陵)去此不甚遠一ハン(馬の右に風:風が船を吹いて進める『大漢和辭典』)風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」とさらに詳しく記述しました。この記述からは、于山島は日本人が称する松島を指しているとしか考えようがありません

 私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。もし「此」が鬱陵島を指すのであれば、

「盖二島去此不甚遠一颿風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」

の部分は

「鬱陵島と于山島は鬱陵島からそれほど遠くなく于山島は鬱陵島から見えて鬱陵島は鬱陵島から見える。」

という意味になってしまいます。これでは支離滅裂ですよ。。


 Re: 『西溪雑録』「欝陵島」于山島は松島

2008/ 1/ 3 14:09 [ No.16080 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
続きです。

 >>于山島は欝陵島の東2 kmにある竹嶼(Chukdo)を指すこともあります。しかし竹嶼は、朝鮮本土からは全く見えず、欝陵島からは、天気が非常によい時でなくとも、また、標高の最も高いところまで登らなくとも、見ることの出来る島ですから、この于山島が竹嶼を表しているとは思えません。

『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。
 
「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」

 そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
 しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがありません。
 それに朴世堂は「麋鹿熊シヤウ徃徃越海出來」とありえないことを書いているわけですから実際には見えない島を見えると書いたとしても不思議ではありません。


 >>朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧は1666年倭船に隨い欝陵島に来た、と考えます。
朴世堂は多くの人から欝陵島の情報を集めたでしょう。その中で日本人と思しき「壬辰之亂の俘(の子孫?)」と自称する僧をインフォーマントとして最も高く評価し、『西溪雑録』「欝陵島」で一章を割いて、非常に詳しく彼の話を記録したことを、大変興味深く感じました。

 「日本人と思しき」とあります。ararenotomoさんの話を総合すると朴世堂が「嘗遇一僧自稱壬辰之亂俘」と書いた僧侶は鬱陵島が物産豊富な島と聞き、1666年大谷家の船に乗って欝陵島に渡りあわびやあしかを捕まえて、日本に戻る途中で遭難して朝鮮半島に漂着し、日本に帰らずに韓国に帰化し韓国語を覚えて僧侶として活動し、さらに欝陵島とは何回も往来し欝陵島の自然地理に関して詳しいにもかかわらず、朴世堂に欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っていると有りもない話を語ったということになります。。。
 ararenotomoさん自身も No.16054 で「非常に大胆な推測です」とお書きになっているようにこの僧侶の冒険譚には好意的に表現しても信憑性が高くないと思います。私は確実な根拠からは確実な結論を導くことはできるが、信憑性の薄い根拠からは信憑性の薄い結論しか導きだすことができないと考えます。にもかかわらずararenotomoさんはこのような信憑性の薄い根拠から于山島が竹島なのは客観的な事実であるかのような結論を導き出してしまいました。これはいかがなものでしょうか。


 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事

2008/ 1/10 22:13 [ No.16125 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

ご意見と疑問点の指摘を有難うございます。

>いずれにせよ寧海と鬱陵島との間が近いということであって、半日か一日半かは本質的な議論ではありませんね。

そうですね、同感です。私も「僧侶が、「半日の航程」と思っていたかはさて措き、欝陵島と寧海との距離が近い、と認識しているのは明らかです。」と書きました(No.16070)。彼は欝陵島と寧海との距離が近いと認識していたからこそ、「盖二島(于山と欝陵)去此(寧海)不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」と云ったのでしょう。また、「麋鹿熊シャウ(獣偏に章)徃徃越海出來」とも語りました(これは勇み足ですが)。なお、yabutarou01さんはこれを「欝陵島に生息しているはずのない熊が140 kmも離れていて渡れるはずのない朝鮮本土まで泳いで渡っている」と語ったと解釈されていますが、これは朝鮮本土ではなく欝陵島へ出で来たという意味です。次の「- - 島中黄雀群飛來投竹邉串」は、鳥は一般に海を越えるとき群れを作りますから、僧侶は欝陵島で、島中の黄雀が群れをなして竹邉串の方へ飛んで行くのを見たのでしょう。何れも欝陵島は朝鮮本土に近いことを、示したかったからかもしれません(No.16054)。

>ararenotomoさんは欝陵島の高所から鬱陵島の低所にある「- - 青岩壑呈露沙汀樹木」を見たと解釈されていますが、私はそうは思いません。「風恬浪靜則 可指」(風がおだやかで波が静かならば 見える)という文言があります。これは水平線の間際に鬱陵島があるので波が高いと波が邪魔で見えないということであり、海を隔てたどこかから鬱陵島を見たとしか解釈できません。

No.16124で書きましたが、私は「壑」という言葉が気になります。「壑」は『大字典』では「谷間のミゾのこと」とあり、「へこみ系」の言葉のようですので、海上よりはむしろ高所から見たとしました。べつに「海を隔てたどこかから鬱陵島を見た」という解釈は否定しません。ただし、「海を隔てたどこか」は陸上ではなく海上でしょう。

>欝陵島の高所から眼下の「- - 沙汀樹木歴々可指」を見たのであれば波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。

風浪が激しければ、飛沫のため沙汀の樹木が歴々とは見えなくなることはあります。

>私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。

私は、最初の答えとNo.16054で述べたように、「此」は寧海を指すと考えます。「此」が欝陵島を指すとは考えておりません。

yabutarou01さんが朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠は、「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」の「此」は寧海もしくは朝鮮半島を指すので、次の「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」と「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」も朝鮮半島から見たと解釈されたのではないかと思います。

しかし于山島を竹嶼とすると、寧海からは標高100mの竹嶼は、高さ500m以上はある欝陵島の山々の陰に隠れて高所に登っても見えません。竹嶼から西~南西5kmのところに500mの山があるとすると、朝鮮半島から竹嶼を見るには10000m以上の高さが必要です。従って私は、ahirutousagi2さんがNo.16075で言われたように「文章がどう読めるか。その一点が問題」と思いますから、「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」の于山島は、海気が極めて晴朗な日に欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は、朝鮮半島の100m以上の場所から見たのであれば、yabutarou01さんがNo.16079でお書きになったように、「波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありません。」から、私は海上から欝陵島を見たと読みます。


 Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事1

2008/ 1/13 0:38 [ No.16127 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
ararenotomoさんへ


ご意見賜りました。しかしやはり納得できかねます。

 >>私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、ararenotomoさんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。

 >私は、最初の答えとNo.16054で述べたように、「此」は寧海を指すと考えます。「此」が欝陵島を指すとは考えておりません。
yabutarou01さんが朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠は、「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至」の「此」は寧海もしくは朝鮮半島を指すので、次の「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」と「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」も朝鮮半島から見たと解釈されたのではないかと思います。


 ararenotomoさんの主張どおりならば鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記しているはずで、明記していないならば寧海から見たと解釈するのは間違っているのでしょうか。以下にさらに詳しく説明します。

 私は人が文章を書くときには普遍的な法則が二つ存在していると考えます。一つ目は人が文章を書くときはその文章の書き手は読み手に自分の意図が伝わるように書くということです。明記しないと読み手に意図が伝わらない箇所は省略しないはずです。『西溪雑録』の文章は地誌に関する文章です。地誌というのはある地域について、その地域についてよく知らない人に対してその地域がどのようなものであるかを説明することを意図して書かれているはずです。したがって、読み手がその地域に対する正確かつ詳細な知識を持ち合わせていないと解読できないような表現を使うはずがありません。
加えて当時の朝鮮には地誌の記述を読み手に正確に理解させるための「規式」と呼ばれるルールが存在していました。
「規式」について

 法則の二つ目は人が文章を書くときはその文章の書き手は自らが事実であると考えていることを書くか自らが事実でないと考えていることを書くかのどちらかであるが、たとえ事実であると考えていることを書いたとしてもそれが本当に事実であるとは限らない、ということです。
人は、正確で判りやすい情報を与えられていれば正しい判断ができますが、事実でない情報、判りにくい情報、曖昧な情報しか入手できないと判断を誤って事実でないことを事実として文章にしてしまうことがあります。
したがって書き手が事実として書いた文章であっても、客観的に考えてそれが本当に事実であるかは個別に検討する必要があります。


 Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事2

2008/ 1/13 0:52 [ No.16128 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
 この二つの法則を踏まえて『新增東國輿地勝覧』と『西溪雑録』の文章を検討してみましょう。
 ararenotomoさんは朝鮮本土から欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるというのは事実に反するが欝陵島の高所から見れば峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるのは事実なので『新增東國輿地勝覧』の「一云武陵一云羽陵二島在縣正東海中三峰岌〓〓空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴々可見」の「峯頭樹木及山根沙渚歴々可見」は朝鮮本土から見たのではなく、欝陵島の高所から見たと解釈されています。しかし欝陵島の高所から見たと明記しないと読み手に欝陵島の高所から見たということを伝えることができないにもかかわらずこれが明記されていないということを考えれば、たとえ欝陵島の高所から「峯頭樹木及山根沙渚」が見えるのが事実だとしても『新增東國輿地勝覧』の著者は欝陵島の高所から見たと考えているわけではない、と判断できます。それではどこから見たのか文中を探ってみると「二島在縣正東海中」の縣(蔚珍縣)からとしか解釈できません。また地誌の書式を規定する「規式」のルールにば島嶼の場合には、陸地からの距離を明記するという原則があったことを考慮しても朝鮮本土である蔚珍縣から見たと解釈するのが適当です。ただここで問題になるのは朝鮮本土から欝陵島の峯頭の樹木や山根の沙渚が歴歴と見えるはずがないという点ですが、書き手が事実と考えて書いた文章であっても事実でない情報しか入手できないと判断を誤って事実でないことを事実として文章にしてしまうことがあるわけですから、『新增東國輿地勝覧』の著者は正確な情報を入手できなかったために、蔚珍縣から「峯頭樹木及山根沙渚」が見えると誤解していた、と判断しても差し支えないということになります。
 同じくararenotomoさんは朝鮮本土の高所から于山島(于山島に竹島=独島・竹嶼・架空の島のどれをあてはめても同じ)は見えないが欝陵島の高所から竹島=独島は見えるので『西溪雑録』の「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」は欝陵島の高所から見える竹島=独島を于山島であると見なしている、とお考えのようです。しかしこの時代を代表する有名な学者である朴世堂ほどの人物が「鬱陵島から」見たという部分を省略してしまえば「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうことに気付かないはずがありません。にもかかわらず「鬱陵島から」見たと明記されていないわけですから、たとえ欝陵島の高所から竹島=独島が見えるのが事実であったとしても、朴世堂は欝陵島の高所から于山島=竹島=独島が見えると考えていたわけではなく、寧海の高所から于山島が見えると考えていた、と判断できます。「規式」のルールに従ってもこちらのほうが適切です。実際には「寧海の高所から」于山島は見えませんが見えると誤解していたと判断してもよい理由はもう説明しましたね。
 さらにararenotomoさんは「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」を「海上から」見たと解釈されていますが,「海上から」という部分を明記しないと「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうのは明らかであるにもかかわらず「海上から」と明記しなかったということは「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は「海上から」見たのではなく「寧海から」見たと判断できます。「規式」のルールに従ってもこちらのほうか適切ですし、実際に「寧海から」鬱陵島は見えるわけですから何の問題もありません。

 たとえどんなに優秀な人間であっても間違った情報しか入手できなければ正しい判断は出来ない一方で、「欝陵島の高所」からあるいは「海上から」の部分を省略すると読み手が「寧海から」見たと解釈してしまうであろうということは子供でも判断できます。この二つの間のハードルの高さの違いに留意していただきたいと思います。

 難しいことをわかりやすく説明するのは大変難しいものがありますが、理解していただけましたでしょうか。


 Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事

2008/ 1/23 22:47 [ No.16155 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

ご意見有難うございます。私も一般論としてはyabutarou01さんのお考えと殆んど同じです。ただし、yabutarou01さんの個別意見に対し、納得できかねる事例について私の考えを述べます。

>ararenotomoさんの主張どおりならば鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記しているはずで、明記していないならば寧海から見たと解釈するのは間違っているのでしょうか。

「鬱陵島から于山島を見た・海上から鬱陵島を見たと、どの位置から見たかを明記している」とよいのですが、なかなか明記してくれないので、いろいろな解釈が生れます。

私は、「欝陵島地誌」冒頭の欝陵島の記述「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」で、最初は「登高望之」が、最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈していました(Nos.16124, 16125)。しかし、ahirutousagi2さんとyabutarou01さんの指摘を受け、「登高望之」は「- - 南峰稍低」までしか係らず、「日初出時風恬浪靜則 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観が相応しいと思い、前説を撤回しました(No.16154)。このように「登高望之」と、どの位置から見たかを明記していても、それがどこまで係るかにより幾つかの解釈が可能になります。

「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見欝陵稍峻風浪息則尋常可見」について、私は、yabutarou01さん同様、「盖二島 - - 風可至」を「二島(于山と欝陵)は此(寧海)から甚だ遠くはないので、ひとたび風に乗れば至ることができる」と解釈しました。しかし、次の「于山島 - - 不可見」の于山島は、獨島=現竹島あるいは竹嶼であれ、「此(寧海)」からは見えないので、海気が極めて晴朗ならば欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。また、「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は「風浪息則」とあるので、朝鮮半島の高所よりはむしろ海上から見たとしました。もちろん、寧海から見たとの解釈を否定する訳ではありません。

『新增東國輿地勝覧』についてyabutarou01さんは、「どこから見たのか文中を探ってみると「二島在縣正東海中」の縣(蔚珍縣)からとしか解釈できません。また地誌の書式を規定する「規式」のルールにば島嶼の場合には、陸地からの距離を明記するという原則があったことを考慮しても朝鮮本土である蔚珍縣から見たと解釈するのが適当です。」と書かれました。

しかし私は、『新增東國輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」では、「陸地からの距離を明記」した部分は「風便則二日可到」で、「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見」は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の景観を描写したものと解釈します(No.16154)。

許穆(1595~1682)の『陟州誌』(1662)欝陵島記事には「欝陵或曰羽陵海中三峰岌ゲフ(山の下に業)南峯差卑海晴則山木森然可望山下皆白沙風便一日可渡云」と書かれています。ここでは「海晴則」とあり、近くの海上から見た欝陵島の景観の描写と思います。

『西溪雑録』に対しyabutarou01さんは、「朴世堂ほどの人物が「鬱陵島から」見たという部分を省略してしまえば「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうことに気付かないはずがありません。」と述べておられますが、『西溪雑録』は欝陵島の地誌ですから「寧海から」見たという部分を省略してしまえば、「欝陵島から」見たと読み手は解釈するでしょう。

『西溪雑録』『臥遊録』の欝陵島記事は非常に優れた欝陵島の地誌です。しかしその中には、当然のことですが、曖昧な表現の文章があります。そのような文章は、各人が自己の所説に、それぞれ適合するように解釈すれば良いのではないかと思います。


 Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事1

2008/ 1/31 2:22 [ No.16180 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
ararenotomoさん

遅くなりましたが回答いたします。

私は基本的にメッセージ 16127 のですでに結論が出ていると考えます。
メッセージ 16127 で私が使ったのは文章がいかに記述されたかその記述のされ方そのものから文意を読み取る、解釈する立場の人間の私情の混じる余地の少ない大変客観的な史料批判方法です。
ararenotomoさんがこの説明で納得していただけないのは残念ですし、私が自分の都合のよいような解釈をしているとお考えならば悲しくさえあります。。


『臥遊録』にはこの『欝陵島』の記事以外に『蔚陵島説』と題された記事があります。

「鵝溪蔚陵島在東海之中距海濱不知其幾百里也毎秋冬之交陰曀捲盡海氣澄朗則自嶺東望之如一后蒼烟撗抹於水天之間獨眞珠府與此島最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之狀了了然可辨以此知不甚遠也箕城人嘗言麋鹿蘆竹往往浮出於沙渚之間禽鳥之不知名者亦翩翩渡海而來及至海濱」

『臥遊録』の『蔚陵島説』
『臥遊録』の『欝陵島』

「嶺東(=江原道の東側)から欝陵島を望むと蒼烟の如くであり、眞珠府(三陟)とこの島が最も対峙している(=最も近い?)故に召公臺(三陟にある高台の地名)に登ると木が生えているのがはっきりとわかるのでそれほど離れていないと判断できる」とあります。
この文章は規式のとおり朝鮮半島から見た欝陵島について記述しています。それに朝鮮半島から欝陵島を見ると木が見えると書かれています。もちろん見えるはずはありませんが当時は見えると信じられていたのは明らかです。

さらにいわゆる竹島一件が起きたときに朝鮮の役人は日本側の使者に対してこのように述べて欝陵島が朝鮮領であることを主張しました。

「本島峰巒樹木自陸地歴々望見而凡其山川紆曲地形濶狭民居遺址土物所産倶戴於我国輿地勝覧書歴代相伝事跡昭然」

『粛宗実録』20年8月13日/『通航一覧』巻137

「欝陵島の峰巒樹木は陸地(朝鮮半島)よりはっきりと見えると『輿地勝覧』に書いてある(ゆえに欝陵島はわが国の地である)」とあります。
この文章は『輿地勝覧』の記述を朝鮮半島から鬱陵島を見ると木が見えると解釈しているのが明らかですよね。

ararenotomoさんは朝鮮半島から樹木が見えないので『新增東國輿地勝覧』の「三峰岌ゲフタウ空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」そして『西溪雑録』『臥遊録』の「登高望之三峰岌嶪撑空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰攢靑岩壑呈露沙汀樹木歷歷可指」は朝鮮半島から見たものであるはずはない、したがって規式のルールは適用されていないとお考えのようです。
しかし朴世堂が生きたまさにその時期に書かれた『臥遊録』の『蔚陵島説』や『粛宗実録』の記事を考慮すれば朴世堂もまた朝鮮半島から鬱陵島を見ると木が見えると誤解していたと理解しなければむしろ不自然ではないでしょうか。
朴世堂に本当に朝鮮半島から鬱陵島の木が見えるのかどうか検証する手段があったとは思えません。
当時朝鮮半島から鬱陵島の木が見えるという情報があったのであればそれをそのまま信じるよりほかになかったのではないでしょうか。
人はだれでもその人が生きた時代の認識の限界から自由になることができません。
天動説を信じていたプトレマイオスが地動説を信じている現在の日本の高校生よりもおばかさんであるというわけではないのですよ。


 >>許穆(1595~1682)の『陟州誌』(1662)欝陵島記事には「欝陵或曰羽陵海中三峰岌ゲフ(山の下に業)南峯差卑海晴則山木森然可望山下皆白沙風便一日可渡云」と書かれています。ここでは「海晴則」とあり、近くの海上から見た欝陵島の景観の描写と思います。

朝鮮半島から欝陵島を見る時その間にある海が晴れていなければ見えないのは当然ではないでしょうか。
『陟州誌』の「海晴則」は『臥遊録』・『蔚陵島説』の「海氣澄朗則」と同じ表現であると


 Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事2

2008/ 1/31 2:30 [ No.16181 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
>>『西溪雑録』に対しyabutarou01さんは、「朴世堂ほどの人物が「鬱陵島から」見たという部分を省略してしまえば「寧海から」見たと読み手が解釈してしまうことに気付かないはずがありません。」と述べておられますが、『西溪雑録』は欝陵島の地誌ですから「寧海から」見たという部分を省略してしまえば、「欝陵島から」見たと読み手は解釈するでしょう。

ararenotomoさんの主張どおり主語を省略すれば「欝陵島から」見たと読み手は解釈するのであれば後ろの「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」も主語が省略されている以上「欝陵島から」見たと解釈せざるをえなくなってしいます。
しかしそれでは文意がおかしくなってしまうのは明らかですから、主語が省略されていれば「欝陵島から」と読み手は解釈すると朴世堂が考えていたはずはありません。
ararenotomoさんは「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」を海上から見た、または寧海から見たと解釈されているようです。
しかし主語が省略されていれば読み手が「海上から見た」と解釈するであろうと朴世堂が考えていたと判断できる根拠はなにもありません。
またもし「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」が主語が省略されているにもかかわらず「寧海から見た」と解釈することが可能であるならば、前の文章「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」を「寧海から見た」と解釈することに躊躇すべき理由はなにもないはずです。


 >>『西溪雑録』『臥遊録』の欝陵島記事は非常に優れた欝陵島の地誌です。しかしその中には、当然のことですが、曖昧な表現の文章があります。そのような文章は、各人が自己の所説に、それぞれ適合するように解釈すれば良いのではないかと思います。
 >>古い時代の地誌は、情報の量は少なく信頼性も乏しいですが、「文章をそのままに理解すれば」かなりの情報は得られます。それに基づいて、私は主観に過ぎない解釈を試みてゆきたいと思っております。

竹島問題についての議論は日韓双方が相手方は自らの立場に都合のよい我田引水の主張をしているのではないかと考え、疑心暗鬼に陥ってしまっています。
そうである以上日韓双方が濡れ雑巾を捻り絞るがごとく、一滴の主観も残さないような客観的な研究態度で事にあたらなければこの問題は解決できないのではないでしょうか。
竹島問題が解決出来なければ真の日韓友好は実現出来るはずもありません。
もとより私もいくら客観的に研究したところで意見が完全に一致できるとは思っていません。
しかしそれによって相手方に誠意を伝えるくらいのことは出来るのではないでしょうか。
お互いに誠意が伝わったならば何かよい解決方法が見つかるのではないかと私は期待しています。
いわゆるパンドラの箱を開けた時に最後に残った希望のようなものです。
韓国では本気で喧嘩した相手としか真の友情関係を築けない、とはよく語られる話ではないですか。
ararenotomoさんもその知性と教養と情熱を日韓友好のために役に立つ方向で活用してはいただけないものでしょうか。


 >Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事

2008/ 2/ 7 23:34 [ No.16307 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
yabutarou01さん

>ararenotomoさんがこの説明で納得していただけないのは残念ですし、私が自分の都合のよいような解釈をしているとお考えならば悲しくさえあります。。

私は、yabutarou01さんの文章にはよく分からないところもありますが、「一般論としてはyabutarou01さんのお考えと殆んど同じです。」と書きました。ただし、yabutarou01さんの説明で納得できないことに対して、私の考えを述べました。それがyabutarou01さんに悲しみを与えてしまったなら、私の真意ではありません。お詫びします。

納得できなかったことの一つは、「盖二島去此不甚遠一ハン(馬の右に風)風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見欝陵稍峻風浪息則尋常可見」の解釈です。「盖二島 - - 風可至」の解釈はyabutarou01さんと同じですが、「于山島 - - 不可見」に関して、yabutarou01さんは、于山島を竹嶼とし、「此(寧海)」から見たとのお考えのようですが、寧海近くの朝鮮半島から竹嶼を見るには10000m以上の高さが必要です(No.16125)。従って私は、欝陵島から見たとは書いてありませんが、上記の文は「欝陵島地誌」の記事ですから、この于山島は海気が極めて晴朗ならば欝陵島の最高頂に登って見ることのできる獨島=現竹島、と解釈しました。「欝陵稍峻風浪息則尋常可見」は、朝鮮半島の高所から見たのであれば、yabutarou01さんが述べられたように(No.16079)、波の状態如何で見えやすさが変化するはずがありませんから、海上から欝陵島を見たと解釈しました。

二つ目は、「欝陵島地誌」冒頭の「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」で、私は最初、「登高望之」が「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈していました。しかし、ahirutousagi2さんとyabutarou01さんのご指摘により、「日初出時風恬浪靜則 - - 沙汀樹木歴々可指」は、海上から見た欝陵島の景観が相応しいと思い、前説を撤回しました。そこで、同様な表現である『新增東國輿地勝覧』の「峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」も、朝鮮の人々は欝陵島にしばしば渡航していましたから、私は、欝陵島に上陸し或は近くの海上から見た欝陵島の景観を描写したものと解釈しました(No.16154)。

yabutarou01さんはNo.16180で、これに関連する重要な資料、鵝溪李山海(1539~1609)の「蔚陵島説」を紹介されました。「海氣澄朗則自嶺東望之如一后蒼烟横抹於水天之間獨眞珠府與此島最爲相對故行人之登召公臺者或見其林木岡巒之状了了然可辨以此知不甚遠也」の記述は大変興味があります。yabutarou01さんが的確に訳されたように、「海氣澄朗ならば嶺東より欝陵島を望めば厚い蒼烟の如く水天の間に独り横たわり、眞珠府(三陟)はこの島が最も対峙している(最も近い?)故に召公臺(三陟にある高台の地名)に登ると林木岡巒の状がはっきりとわかるので甚だ遠くないと判断できる」と書かれています。

これは、yabutarou01さんが述べられたように、朝鮮半島から欝陵島の木々や山々の状態がはっきりとわかる、とした最初の記事と思います。後の「竹島一件」に際し、領議政南九萬は1694年9月「本島峰巒樹木自陸地歴々望見 - - 載於我国輿地勝覧書」と書き、宗氏の竹島日本領説に反駁しました。これをうけ、宗義真の近臣陶山庄右衛門は賀島兵助宛に次のように書き送りました「竹島之儀日本之地を去る事百六拾四里、朝鮮之地よりは樹木磯際迄相見へ、誠に朝鮮に屬候」(『竹島文談』日本経済叢書13, 1915)。竹島日本領説の破綻は、欝陵島について殆んど知らないまま、日本領化を謀った当然の帰結でしょう。

なお、三陟市から鬱陵島は微かにしか見えないようです。

yabutarou01さん、大変興味深い資料の紹介を有難うございました。私は単なる地理マニアに過ぎませんが、またいろいろとご教示ください。


 Re: >Re: 『西溪雑録』と『臥遊録』の記事

2008/ 2/ 8 22:49 [ No.16319 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
ararenotomoさん

 >>これは、yabutarou01さんが述べられたように、朝鮮半島から欝陵島の木々や山々の状態がはっきりとわかる、とした最初の記事と思います。後の「竹島一件」に際し、領議政南九萬は1694年9月「本島峰巒樹木自陸地歴々望見 - -載於我国輿地勝覧書」と書き、宗氏の竹島日本領説に反駁しました。

うーん。。。私は南九萬が「自陸地歴々望見」と言っているということは『新增東國輿地勝覧』の、

于山島欝陵島一云武陵一云羽陵二島在縣正東海中三峰岌業空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見

の「可見」が朝鮮半島から于山島と欝陵島の二島を見たものであるとしか解釈できない。したがって『西溪雑録』と『臥遊録』の『欝陵島』の、

于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見

も朝鮮半島から于山島を見たと解釈すべきである。
竹島=独島は朝鮮半島から見えない以上『新增東國輿地勝覧』の于山島も『西溪雑録』と『臥遊録』の『欝陵島』の于山島も竹島=独島のことであると見なすことができない。
このように訴えたかったわけですが、理解していただけましたでしょうか。。心配です。。。

  • 最終更新:2009-03-10 07:10:26

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