16083 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』

 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』1

2008/ 1/ 3 21:47 [ No.16083 / 17395 ] 
 投稿者 : ban_wol_seong
  半月城です。
 『西渓雑録』に書かれた僧の記事はなかなか興味を引きます。特に僧が「壬辰の乱で日本へ俘虜として入り、丙午年に倭船にしたがって欝陵島へ至った」とするくだりは歴史の生き証人としての証言だけに注目されます。
  僧は欝陵島の情景を詳細に語っていることなどから、上記の一節に関するかぎり、ほぼ信頼できそうです。これが史書からも裏付けられるのかどうか考察したいと思います。

  まず、壬辰の乱とはいうまでもなく、1592年に豊臣秀吉が朝鮮を侵略した無謀な文禄の役を指しますが、日本軍は慶長の役とあわせて、朝鮮人を5万人ないし7万人も日本へ拉致しました。薩摩焼の沈寿官さんや、戦時中の東郷外相などはそうした子孫の一人として有名ですが、拉致された人びとのほとんどは日本に残りました(注1)。
  それも無理ありません。何しろ戦後処理の遅れから、被虜を連れ戻す公式の刷還使が日本へ派遣されたのが、なんと10年も経た1607年であり、その時は被虜本人もほとんどが日本に定着して帰国を望まなかったのでした。また、被虜の主人や藩も被虜が帰国するのをほとんど望まなかったのでした。

  しかし、対馬だけは別でした。対馬は侵略戦争により朝鮮との交易を完全に断たれたので、糧道を断たれたも同然でした。良田の少ない対馬は、魏志倭人伝の時代から交易が命でした。宗義智は朝鮮との交易を再開すべく懸命な努力をしました。その一環として、朝鮮へ誠意を示すべく、被虜人の送還を積極的に行ないました。
  1600年、対馬にいた被虜 300余名、翌年には250名を朝鮮へ送り届けましたが、これらの努力が功を奏し、朝鮮もやや軟化し始めました。05年に朝鮮から講和のさきがけとして松運大師を招き、徳川家康と対面させるまでにこぎつけました。松運大師は加藤清正と戦った義兵僧でした。
  その時の話し合いで被虜の送還が決まり、対馬はさっそく手始めに被虜 1200人を送還しました。その後も、対馬は被虜人を積極的に各地から集めるのに躍起でした。その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。

  一方、対馬と欝陵島とのかかわりですが、古くは室町時代 1407年にさかのぼります。宗貞茂は、朝鮮の太宗が欝陵島を空島にしたことをかぎつけたのか、朝鮮に土産物を献上し、倭寇の被虜を送還して、茂陵島(欝陵島)に対馬島民を移住させたいと申し出ました。これに対して太宗は、それを許すと、幕府と対立する謀反人を入れることになるという理由で許可しませんでした。

  その後、対馬は豊臣秀吉の朝鮮侵略の先導をになうのですが、そのころ、対馬から欝陵島へ渡航していた人がいました。それは鷺坂(磯竹)弥左衛門・仁右衛門親子ですが、幕府の『通航一覧』によれば、元和6(1620)年に竹島(欝陵島)で潜商の罪で捕えられました。ただし『通航一覧』は続けて『対州編稔略』を引用し「潜商の事とも定めがたく」と記しました。どうやら親子の活動は公認の事業であったようです。
  関連記事は、1617年に朝鮮使節の従事官として来日した李景稷の旅行記である『李石門扶桑録』にも記されました。それについて中村栄孝はこう記しました。
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 (『李石門扶桑録』)記事のなかで、対馬の老臣 柳川調興が、伏見で、土井大炊助利勝と朝鮮のことを語ったさい、利勝から、磯竹弥左衛門のことをのぼらせたとあるのは、注目すべきところである。秀吉の許可をえて、「礒竹島」へ渡り、材木などを取ってかえり、その縁故で「礒竹弥左衛門」とよばれた日本人があった。かれは、その後、この島への渡航によって生活し、歳役を納めていたというのである(注2)。
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(つづく)


 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』2

2008/ 1/ 3 21:50 [ No.16084 / 17395 ] 
投稿者 :  ban_wol_seong  
 
  弥左衛門は歳役を納めていたので、やはり竹島(欝陵島)で公認の事業をしていたようです。しかも、かれは公儀から御朱印をもらっていたようで、中村栄孝は「柚谷記に曰、磯竹島は、昔、鷺坂弥左衛門父子、渡此島 陰(ママ)居、自公儀以御朱印」と紹介しました(注2)。
  磯竹島に倭人が入り込んでいたことは朝鮮史書『芝峰類説』にもあり、「壬辰變後 人有往見者 亦被倭焚掠 無復人煙 近聞倭奴占據 礒竹島 或謂礒竹 即蔚陵島也」と記されました。すなわち、壬辰の変以後、倭人が礒竹島(蔚陵島)を占拠したとされました。これは弥左衛門親子の居住をさすものと思われます。

  そうした実績に立ち、対馬は欝陵島を自国領にすべく、1614年、朝鮮に対して竹島(欝陵島)は日本領であると言いだしました。これを『通航一覧』は「宗對馬守 義智より朝鮮國東莱府使に書を贈りて、竹島は日本屬島なるよしを諭せしに、彼許さず、よて猶使書往復に及ぶ」と記しました。ただし、同書はこれを慶長17(1612)年のこととして書き、注で『朝鮮通交大紀』では慶長19年のこととしていると記しました。
  これに対応する記事が『光海君日記』1614年9月2日条に見えるので、対馬の申し入れは慶長19年が正しいようです。朝鮮は対馬の主張をもちろん受けいれるはずはありません。東莱府使の尹守謙は「いわゆる磯竹島は、これ我国の欝陵島なり・・・・・貴国の我国に来往するは、ただ釜山一路を除くのほか、皆海賊をもって論断せり」と回答したことが『通航一覧』巻137に記されました。

  以上のように、弥左衛門親子は慶長年間に豊臣秀吉や対馬国の公認のもとに竹島(欝陵島)で活動していたことは史料からも裏付けられます。したがって、その時に『西渓雑録』に登場する僧が対馬から弥左衛門親子にしたがって欝陵島へ渡航したことは充分あり得ます。僧は日本人と行動した時のことをこう語りました。

 「(欝陵島で)倭人が竹を伐り、薬草を採っていた。自分が船に残り留守番をしていたところ、横の船に同じような俘虜が七人いたので、夜、一緒に語り合った。ちょうど暁どきに船を出して以来、日が申時(午後3-5時)にはもう寧海の地に着いたと云う」(韓国人研究者訳)

  この伝聞によると、僧は俘虜7人とともに欝陵島から寧海へ行ったとされますが、それが可能かどうか疑わしいところです。俘虜の送還は対馬から朝鮮の東莱府へなされているので、俘虜を欝陵島経由で送ることは考えられません。ただ、俘虜たちが欝陵島から逃げて寧海へ行ったとするなら、まだ少しは可能性があるかもしれません。
  いずれにせよ、僧の話には多少の脚色があるようです。ま、僧が俘虜として日本へ行った話だけは信じられるとしても、欝陵島から寧海へ行ったという話は、実は倭人に随った時のことではなく、別な機会に朝鮮から往復していたのかも知れません。
  そこで思い当たるのは、弥左衛門親子が「潜商」であった事実です。彼らは欝陵島で単に木の伐採だけを行なっていたのではなく、交易の途絶えた朝鮮とは欝陵島を中継地点にして密貿易をおこなっていたのではないかと想像されます。

  ところで、話はかわりますが、下條正男氏は「朴世堂は、『東国輿地勝覧』の記事を基に僧侶からの旧聞を加え、八百字程で「欝陵島」を作文したのである」としていますが、朴世堂が僧から直接話を聞いたかどうかは疑問です。
  ここで注意すべきは、すでに紹介されているように『西渓雑録』の「欝陵島」は同書だけでなく『臥遊録』にも登場することです。時期的にはどうやら『臥遊録』のほうが古いようです。韓国蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの記事を扱っており、その中に「欝陵島」が記載されているので、その頃に「欝陵島」の話は完成していたと見られます(注3)。
  それに対し、朴世堂『西渓雑録』は「欝陵島」以外に張漢相「蔚陵島事蹟」も載せているので、同書の成立は1693年以降、亡くなる 1703年以前と思われます。したがって、朴世堂が『臥遊録』の文をそっくり転載したか、あるいは両書共通の種本があったと見られます。朴世堂の経歴からすると(注4)、そのころの朴世堂は種々の情報を容易に得られる立場にあったようです。そのために「蔚陵島事蹟」の転載も可能だったと思われます。
(つづく)


 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3

2008/ 1/ 3 22:10 [ No.16086 / 17395 ] 
投稿者 :  ban_wol_seong  
 
  両書の前後関係はともかく、ここで重要なのは「欝陵島」の記述が性質も時代も違う二書に記述されたことです。これは取りも直さず、その話が17世紀半ば以降は広く知れわたっていたことを意味します。
  しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。

(注1)半月城通信<東郷・元外相は朝鮮出身?>
(注2)中村栄孝『日鮮関係史の研究』下、吉川弘文館、1969、P456
(注3)韓国「王室図書館蔵書閣デジタルアーカイブ」の「臥遊録解題」によれば、『臥遊録』は2種類が知られており、「欝陵島」が記載されている蔵書閣の『臥遊録』は17世紀半ばまでの史料のみが掲載されているとのこと。
(注4)朴世堂(1629―1703、仁祖7―粛宗29)の経歴(Yahoo! Korea辞書による)
 朝鮮中期の学者、文臣。字は季肯、号は西渓。本貫は播南。1660(顕宗1)年、増広文科に首席で及第し、成均館典籍に叙授された後、兵曹正言などを経て、1664年に副修撰、黄海道の暗行御使になった。1667年に修撰、翌年に吏曹佐郎になったが、就任せずに杖刑を受けた後、同年に冬至使書状官として清を往復した。
 その後、礼曹、刑曹の参議を勤め、1694(粛宗20)年の甲戌喚局以後に少論が重用されるや、承旨に特進し、翌年、工曹判書を経て吏曹判書を勤めた。1703年に判中樞府事として耆老所に入ったが、『思辨録』を書いて朱子学を批判し、独自の見解を発表したため、斯文乱賊の烙印を押されて官職を剥奪され、配流途中に玉果で死ぬ。
・ ・・・
 実学派の先駆的人物として、彼の思想と学問は批判的な観点から出発したが、自主意識が強く、自由奔放な独創性を帯びている。

(追記)(1)に下記の「 」を追加します。
その中に『西渓雑録』に登場する僧がいた可能性は充分に考えられます。「その僧が欝陵島へ行ったとする丙午年は、僧の年令から考えて 1606年と思われます。」
また、前回の書き込みで「購読」は「講読」の間違いでした。また「韓文」は間違いではないので、念のため。


 Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』3

2008/ 1/ 3 23:23 [ No.16087 / 17395 ] 
投稿者 :  husenoyaji  
 
>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり

そんな認識はありません。
相去るは半島からの話しであるのがフォーマットですから、此処を去ることと
入れなくても二島が半島から遠くないと読むのが基本です。
この掲示板でその話しは出てますよ。

仮に二島間の関係なら、渚や木が見えるということが決定的に矛盾します。
100mしか離れて無くても、天気が雨なら見えません。

すでに何度も出たことですが、rom専の方のために書いておきます。

すくなくともそれらの記述を読んだ当時の人間の解釈は地図の位置です。


 Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』

2008/ 1/ 4 5:29 [ No.16088 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
半月城さんへ 

 >>しかも、それまでの「于山と欝陵はお互いに遠くなく、天候が清明なら望見される」とされる程度であった認識がより具体的になり、「于山島は地勢が低く、くっきり晴れた日に高い所に登らなければ見えない」と明確にされ、描写がより具体的になったことです。そのような島は竹島=独島しかあり得ません。

 半月城さんは長々と文章をお書きになりましたが私と下條氏が提示した疑問に全くお答えになっていません。半月城さんは建設的な議論をするお気持ちがあるのでしょうか。最近2ちゃんねるにあれこれ書き込んでいらっしゃるようですが、疑問にちゃんとお答えにならないと半月城さんの意図とは逆の結果になってしまいますよ。。
 そんなわけで半月城さんには改めて質問にお答えいただきたいと思います。
 

 「云盖二島去此不甚遠一ハン風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見鬱陵稍峻風浪息則尋常可見」
私はこの文が朝鮮半島から二島(于山と欝陵)が見えると判断した根拠として文章の構造上の問題を根拠に挙げましたが、半月城さんは「去此」の「此」が何を指しているとお考えですか。もし「此」が鬱陵島を指すのであれば、

「鬱陵島と于山島は鬱陵島からそれほど遠くなく于山島は鬱陵島から見えて鬱陵島は鬱陵島から見える。」

という意味になってしまいます。これでは支離滅裂ですよ。。

 
 「中宗実録」  中宗 六年(1511年) 5月 21日の項に

  「謂臣曰, 寧海居軍官朴自範云, 江原道武陵島, 與此相望, 夜有火光, 疑是倭船隱接, 或我國逋亡人潛寓。」

とあるのを見れば「去此」の「此」が朝鮮半島(寧海) を指していて世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」の「相去不遠」は「于山と欝陵はお互いに遠くなく」ではなく「(蔚珍) 県と于山欝陵二島はお互いに遠くなく」であって、朝鮮半島から鬱陵島が見えると理解すべきではないでしょうか。


 Re: 「壬辰の乱」の俘虜と『西渓雑録』

2008/ 1/ 4 5:39 [ No.16089 / 17395 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
続きです。

 金正浩の大東地志に「鬱陵島在本縣正東海中 (中略) 自本縣天晴而登高望見則如雲氣」

 とあるのは、それまでの世宗実録地理志の「于山武陵二島在県正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」・『西渓雑録』の「盖二島去此不甚遠一ハン風可至于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」をより具体的かつ正確に描写したものではないでしょうか。
 大東地志に「本(蔚珍) 県より高い所に登って望見する」とあるのをみれば『西渓雑録』の「登最高頂」も朝鮮半島から高い所に登ったということですよね。
 半月城さんも

かれ(金正浩)は『世宗実録』地理志や『東国輿地勝覧』など地理志の伝統を受けついだことだけはたしかで、そうした趣旨がかれの著書『大東地誌』『輿國備志』『東輿圖地誌』などにうかがえます。
朝鮮の近代地図「大東輿地図」

とお書きになっています。半月城さんは官撰ではない『西渓雑録』を持ち出していらっしゃいますから、私が官撰ではない地誌や地図を持ち出しても構いませんよね。



 『西溪雑録』「欝陵島」の柳博士のいう第4部には『蔚陵島事蹟』に載っている内容とほぼ同じ張漢相が鬱陵島を検察した際の報告が載せられています。これによると張漢相は鬱陵島で二つの望見しました。
 
「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生於一面 霽〓捲之日 入山登中峯 則南北両峯 岌崇相面 此謂三峯也 西望大関嶺透〓之状 東望海中有一島 杳在辰方 而其大未満蔚島三分之一 不過三百余里」

 そのうちの一つ「東方五里許 有一小島 不甚高大 海長竹叢生」とあるのは鬱陵島の北東にある竹の生えている島竹嶼だと考えられます。もう一つ「東望海中有一島 杳在辰方」「東側に海を望んだところ、東南方向に島がひとつかすかにあるが・・・」とあるのは方角から考えて竹島(独島)だと思われます。もし『西溪雑録』「欝陵島」の「于山島勢卑不因海氣極淸朗不登最高頂則不可見」の于山島が竹島(独島)を指していて当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたとすれば朝鮮の朝廷は「東望海中有一島 杳在辰方」とある島を于山島と考えていたはずです。
 しかし1711年に鬱陵島を検察した朴錫昌が描いた鬱陵島図形には北東方向に「海長竹田所謂于山島」と書かれた島があります。竹島(独島)には竹が生えていませんし同じ「海長竹」という表現が使われているわけですからこの島は「東方五里許」にある「小島」である竹嶼であるはずです。もし当時朝鮮半島で于山島は竹島(独島)であると考えられていたのであれば朴錫昌が竹嶼に「海長竹田所謂于山島」と書き込むはずがないのではないでしょうか。


使いまわしですいません。。。

  • 最終更新:2009-03-10 06:51:40

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