16124 『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていない

 『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていない

2008/ 1/10 22:00 [ No.16124 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  

ahirutousagi2さん

早速のコメントを有難うございます。

>鬱陵島の高所から眼下を見たとする解釈は自然なのでしょうか。「日初出時風恬浪靜則」とある前提は、それではあまり意味をなさないように見えますし、「衆峰サン青岩壑呈露沙汀樹木歴々可指」とも不釣合いに見えます(とくに衆峰サン青)。

『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島」冒頭の欝陵島に関する記述は、「欝陵或曰武陵亦曰羽陵登高望之三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空而南峰稍低 - - 沙汀樹木歴々可指」として、「登高望之」以下の文で欝陵島の自然景観を説明しています。問題は「登高望之」がどこまで係るかですが、私は最後の「沙汀樹木歴々可指」まで係ると解釈しました。

「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。もちろん、「登高望之」は「- - 南峯稍低」までに係り、「日初出時 - - 沙汀樹木歴々可指」は海上から見た欝陵島の景観とみることは可能です。

>朝鮮半島からそんなのは見えるはずはない、と言うのは、理由にはならないと考えます。

朝鮮半島から欝陵島を見たとする所説は、『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中二島相去不遠風日清明則可望見」「于山・武陵の二島は相去ること遠くなく風日清明ならば望み見ることができる」との解釈を否定するために、川上健三氏によって提唱されました(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)。

川上氏は次のように書いています:『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。(中略)これをさらに裏付けるのが『輿地勝覧』の記事である。同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。

>「文章がどう読めるか。その一点が問題かと。」

全く同感です。そこで、『新增東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。

18世紀中頃の地理書である李重煥著平木實訳『択里志』(平凡社東洋文庫751, 2006)の「鬱陵島は江原道の三陟府の海中にある。晴れた日に高い所に登って眺めると、雲のようにみえる。」が実際に近いかと。

金正浩は『大東地志』(1863)に「鬱陵島在本縣正東海中(中略)自本縣天晴而登高望見則如雲氣」と書いていることが、yabutarou01さんによって紹介されています(No.16089)。金正浩は「自本縣天晴而登高望見則如雲氣」を『択里志』から択んだのでしょう。

これは メッセージ 16075 ahirutousagi2 さんに対する返信です



 Re: 『輿地勝覧』本土から欝陵島を見ていな

2008/ 1/10 22:51 [ No.16126 / 17395 ] 
投稿者 :  ahirutousagi2  
 
>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰むらがり青岩壑に呈露す」は、海上から見た景観とも取れますが、壑(ガク)は「たに。山と山のあいだの、くぼんでいるところ。土地がくぼんでいるところ。『日本語大辞典』」とあります。そこで、谷底或は窪地に露呈する青岩を、海上から見るのは困難と思われるので、欝陵島の高所から見た景観としました。

この部分は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。つまり、峰々が青く群がり岩谷が露呈しているという理解です。遠くから見て、青い峰々が見え、そして岩谷までも見えているさま[岩谷は文字通り岩や谷]。

別段、上から見る必要もありません。また「日初出時風恬浪靜則」から考えても、違和感はありません。むしろ、上から見ると理解するのは相当に不自然です。

>同書では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空 南峯稍卑 風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見 風便則二日可到」という表現に改めている。これは明らかに、本土から風日清明の際に欝陵島を望見した状況について描写したものであって、于山・欝陵二島間に関する記事ではない。

正しい記述だと思います。

>『新增東國輿地勝覧』の「風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」の文章は、峯頭の樹木や山根の沙渚が分明に見えるとしているので、本土から140kmも離れた欝陵島を望見した状況についての描写とは、私には読めません。欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島を描写したものと読みます。

繰り返し申し上げますが、今現在の理解で本土から見てどうであるとか、この描写は現実に即している、というのは、無意味だと言うことです。遠く離れた鬱陵島を望見した状況の描写とは見えない、というのは、単に、貴殿の主観に過ぎません。

見える見えないはどうでもよいのです。文章をそのままに理解すればそれでよろしいかと。実際に、当時の人々にとって鬱陵島は現在ほどに明確に具体像を把握されていた島ではありませんでしたし、ましてや、于山島はまったくの不明の島であったとすべきでしょう。
これは メッセージ 16124 ararenotomo さんに対する返信です  

 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 1/23 22:35 [ No.16154 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
ahirutousagi2さん

>「日初出時風恬浪靜則衆峰サン(手偏に賛)青岩壑呈露」は、私は「衆峰群がり青岩壑に呈露す」ではなく「衆峰青く群がり岩壑呈露す」と読みました。

ahirutousagi2さん有難うございます。私の読み方は撤回します。

「日初めて出る時風穏かに浪静かならば則衆峰青く群がり岩壑呈露す」「朝日に照らされ峰々は青く輝き谷底には露岩が現れる」は、日の出時、波静かな海上から見た欝陵島東岸の景観をよく表していると思います。峰々が青いということは鬱蒼とした樹林に覆われていることを示すのでしょう。yabutarou01さんも指摘されていますが、「風恬浪靜則」や「風浪息則」などの表現は「海」に関わることがよく分かりました。ahirutousagi2さん・yabutarou01さん有難うございました。

私は、川上健三氏(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院, 1966)が「『高麗史地理志』の中にある「一云于山武陵本二島」との一節は、全体の文脈からみて、一説として二島説のあることを挿入したものであって、「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できるとの意味と解されるのである。」と述べていることに疑問を感じます。

『高麗史地理志』蔚珍縣の條には次のように書かれています。「有鬱陵島(以下分註)在縣正東海中新羅時稱于山國一云武陵一云羽陵地方百里(百二十余字略)然多岩石民不可居遂寢其議一云于山武陵本二島相距不遠風日淸明則可望見」

川上氏の解釈、即ち「「相距不遠」以下の文章は欝陵島を受けており、欝陵島が本土と相距ること遠からず、」とするには無理があるように思います。欝陵島は、「在縣正東海中」として、既に一島説に基づいて詳しく説明されています。川上氏が述べたように、「一云于山武陵本二島」との一節は、一説として二島説のあることを最後に挿入したものです。それ故、「一云于山武陵本二島相距不遠風日淸明則可望見」から、武陵(欝陵島)だけが、どうして「欝陵島が本土と相距ること遠からず、風日清明の際には望見できる」との意味になるのか、私には全く理解できません。

私は、「于山武陵本二島相距不遠風日淸明則可望見」は、于山と武陵はもともと別々の二つの島であり、于山と武陵の二島は相距ること遠からず、風日清明ならば互いに望見できる、と解します。同様な記述である『世宗実録地理志』蔚珍縣條の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日淸明則可望見」からも、「欝陵島が本土と相去ること遠からず」との解釈は出てこないと思います。

従って私は、川上氏のように「(『輿地勝覧』)では、『実録地理志』の「二島相去不遠」との一節のかわりに、これに該当する箇所を「三峰 - - 山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」という表現に改めている。」とは考えません。

「空島政策」とはいえ、朝鮮の人々は欝陵島にしばしば渡航していました。『輿地勝覧』の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」からは、欝陵島について、かなり明確な具体像が把握されていることが分かります。この箇所は、欝陵島に上陸して或は近くの海上から見た欝陵島の自然景観を描写した、正しい記述だと思います。

一方、于山島については、どれほど具体像が把握されているかは不明ですが、『世宗実録地理志』と『高麗史地理志』の「二島相去不遠風日淸明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日淸明ならば望み見ることのできる島、と明らかに于山島(獨島=現竹島)を認知していることが分かります。

古い時代の地誌は、情報の量は少なく信頼性も乏しいですが、「文章をそのままに理解すれば」かなりの情報は得られます。それに基づいて、私は主観に過ぎない解釈を試みてゆきたいと思っております。


 Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 1/24 10:44 [ No.16157 / 17395 ] 
投稿者 :  husenoyaji  
 
横から失礼。

>二島相去不遠風日淸明則可望見」からは、于山島を欝陵島から風日


二島が主語ですよ。東國輿地勝覧もそうです。
相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。
二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。
したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。

東國輿地勝覧ですが、梢や渚が見えるというのを海上から見た話しだとすると、そんなの当たり前ですから、書く価値がないです。
東國輿地勝覧も、二島まとめて説明して、風がよければ2日で到達するとひとくくりにしています。
つまり、二島がべつに書くほどの旅程の差がないということです。
ところが、この差は、韓国の島の感覚では最大級ですので、于山島が獨島だとするとまったく不自然です。

すくなくともこれらの地誌を解釈した当時の人たちは鬱陵島の直近に于山島を書き込んだのです。それは間違いないことです。


 Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 1/24 12:20 [ No.16158 / 17395 ] 
投稿者 :  Am_I_AHO_1st  
 
>相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。
>二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。
>したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。

 それは無理ですね。
 まず第一に本土からの距離を示す必要がない。
 規式に従えば、郡県から道に報告するわけですから、どの郡県にも所属しない于山島欝陵島の二島は郡県が報告する対象ではなく、上級レベルで編集の過程で特記した事項と解釈するのが合理的です。
 このことを考慮せず、于山島欝陵島の二島にも郡県が管理する島嶼と同じ基準を無批判に適用するのは如何なものか。

 これが郡県の管下にある陸地に近い島であれば、相は本土からの距離になりますが、于山島欝陵島の二島の場合は、二島間距離になるでしょう。それが規式です。


 Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 1/24 23:15 [ No.16160 / 17395 ] 
投稿者 :  chaamiey  
 
>本土からの距離を示す必要がない。

 とおっしゃいますが、よく分からない各地方のことを分かりやすく整理するとすれば、義務報告事項であろうと特記事項であろうと、島の場合には本土からの距離というものは重大な関心事項ではないですか。「示す必要がない」と断言できるとは思えません。


 Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 1/25 11:23 [ No.16164 / 17395 ] 
投稿者 :  Am_I_AHO_1st  
 
 正確には、「示している」とも云えます。
 すなわち地誌には、郡と島々との相関関係について郡の真東方向の海の中にあると書いてあるわけで、実際に郡の管下にない謂わば直轄地としては、その程度で十分でしょう。

 下条教授が痛いのは、一般的な規式を無批判に当てはめて、誤読しているわけです。
 ですので、下条教授の仮説を他の論説に応用することは全く無理との結論で差し支えないと思われます。


 Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 1/24 23:33 [ No.16162 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
husenoyajiさん

早速のコメントを有難うございます。

>相は、お互いにだけど、本土からの距離をしめすときに使ってます。二島の間だだとすると、本土からの距離をしめしていないのが不自然です。したがって二島の間だとする根拠はなにもないです。

下條正男氏は次のように書いておられます(『竹島は日韓どちらのものか』文春新書,2004)。「『慶尚道地理志』では、興善島は「陸地相去ること、水路十里。人民来住して耕作す」と記された。それが『新撰八道地理志』を経て、地誌の最終段階である『世宗実録地理志』では「水路十里。[分註] 人民来住して農作す」に落ち着いた。『世宗実録地理志』では「規式」である「陸地相去ること」の一節が削られたのである。」

『世宗実録地理志』では、「相」を本土からの距離をしめすときに使う必要はないようです。それにもかかわらず、「二島相去不遠風日淸明則可望見」とわざわざ「相」を入れたのは、「二島(于山と武陵)はお互いに相去ること遠くなく、風日清明ならば望み見ることができる」と、二島の間だということを明確に示すため、「相」を使ったと思います。

>東國輿地勝覧ですが、梢や渚が見えるというのを海上から見た話しだとすると、そんなの当たり前ですから、書く価値がないです。

『新增東國輿地勝覧』の「峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見」は、その後の「欝陵島地誌」である、『陟州誌』に「山木森然可望山下皆白沙」や、『西溪雑録』に「沙汀樹木歴々可指」など、同様な表現を生みました。

『臥遊録』「欝陵島地誌」にあるように、欝陵島の海岸の大部分は「皆壁立萬仞」の海蝕崖に囲まれ、植生に乏しいですが、一部に「衆峰青く群がり」即ち鬱蒼とした森林に覆われた峰々や、「山下皆白沙」の海岸の見える所があります。これらの場所は、欝陵島に近づいて海上から見たとき、強く印象に残ったので、記されたものと思います。当たり前で「書く価値がない」ことは書かなかったでしょう。


 Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 1/30 10:40 [ No.16179 / 17395 ] 
投稿者 :  husenoyaji  
 
ararenotomoさん、こんにちは、

>「相」を使ったと思います。

思うのは自由ですが、積極的根拠は陸地をが省かれているというだけですよね。
相去るというだけで、距離をしめすのではないですか。

私は、世宗実録と、東國輿地勝覧をワンセットで考えています。
なぜなら、AHOさんにご教示いただいたところでは、編者が同一人物なんです。
三峯島探検のあとに、いわば決定打として、出たのが東國輿地勝覧なんです。

相を二島がお互いだとすると、東國輿地勝覧では海上からだとするのは矛盾です。
同じ編者なんですから、より詳しく書いたと考えるのが当然です。
そして、お互いに遠くないと記してしまうと、大島と八丈島は遠くないというようなもので、
可能性がなくはないですが、そう読まなければならない必然性がないです。
ところが、こんどは、それなら本土からなら遠くないのかって話しになります。
本土と鬱陵島の間はもっとも遠い土地と土地の間隔ですので。
だから、二島間だとすると直近にあるとしか想像できないのです。

二日可到も、本土でなくお互いだと考えるのですか?
そこまで二島関係に執着する必要があるのは現代韓国人だけだと思いますが。

さらに、鬱陵島から于山島が見えるかどうかなんてことは、書く意味がないです。
正式には住人がいるわけでもなく、しかも高いところからまれにしか見えないのですから。
本土からの距離を書く必要がないなら、なおさらそんな必要はないでしょう。
すべて、現在の観点からの投影と言うべきでしょう。

総合すると、当時は遠いという観念が相当はばのあるもので、本土から見える程度だからそう遠くないと考えるのが妥当です。

>強く印象に残ったので、記されたものと思います。

接近した海上から強く印象にのこるのは、まず断崖絶壁です。
それを書かずに、樹木や渚のことを書くのは、変ですね。
天気が晴れていれば、梢まできれいに見えるというのですから、
それほど近い距離にあると解釈するのが妥当です。
これも二島関係だとすると、なぜそこまで書く必要あるのかは疑問ですし、
本土からの記述だとするとあり得ないし、私が言う矛盾でもあります。決定打がないですね。

重要なことは、東國輿地勝覧では二島の名前をあげても、于山島についてはなにも説明がないまま、一島説に行っています。
結局はっきりしたことはわからない状況で、人聞きの情報が錯綜したのではないかと考える以外に
ないですね。

なんにしても、これらの書籍を読んで地図を書いた人は、直近に書いているのです。
素直によめばそういうことだという、当時の方々の証言ですよ。

私の想像は、古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島が直近にあるので、
これに比定して于山島をあてたのだと思います。
獨島を見て于山島だと考えた人も居る可能性はありますが、普通は見えませんので、近傍の島を
比定してしまったのだと考えます。

確実に言えることは、古代の于山島が獨島である合理性はないこと、東國輿地勝覧の于山島が
獨島のことだとしても、相当の解釈が必要であり、確定した証拠にはならないということです。


 >Re: 『地理志』二島を本土から見ていない

2008/ 2/ 7 23:26 [ No.16306 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
husenoyajiさん

ご意見を有難うございます。少し理解し難いところもありますが、私なりの理解でお答えいたします。

>>『世宗実録地理志』では、「相」を本土からの距離をしめすときに使う必要はないようです。それにもかかわらず、「二島相去不遠風日淸明則可望見」とわざわざ「相」を入れたのは、「二島(于山と武陵)はお互いに相去ること遠くなく、風日清明ならば望み見ることができる」と、二島の間だということを明確に示すため、「相」を使ったと思います。
>思うのは自由ですが、積極的根拠は陸地をが省かれているというだけですよね。相去るというだけで、距離をしめすのではないですか。

「相」は「お互いに」の意味ですから、「二島相去不遠」は、二島(于山と武陵)はお互いに去ることが遠くない、即ち、「相去る」は二島の間の距離を示し、二島と本土の間の距離ではない、と解釈します。『世宗実録地理志』の「于山武陵二島在縣正東海中(以下分註)二島相去不遠風日淸明則可望見」には、「二島在縣正東海中」とありますが、Am_I_AHO_1stさんが言われたように(Nos.16158, 16164)、二島が蔚珍縣の東の海中に在るということを示しているだけで、二島と本土の間の距離を示すとの積極的根拠は無いように思います。さらに『高麗史地理志』では、欝陵島は、「在縣正東海中」として一島説により詳しく説明した後に、「一云于山武陵本二島相距不遠」は一説として末尾に挿入されています。従ってこれから、二島と本土の間の距離を示すとは読めないでしょう(No.16154)。

>私は、世宗実録と、東國輿地勝覧をワンセットで考えています。なぜなら、AHOさんにご教示いただいたところでは、編者が同一人物なんです。三峯島探検のあとに、いわば決定打として、出たのが東國輿地勝覧なんです。

『世宗実録地理志』は1424年に編纂が開始され1454年に完成しました。一方、『東國輿地勝覧』は1481年に完成しましたが、これは伝わらず、現存するのは1531年版です(内藤正中・朴炳渉『竹島=独島論争』新幹社, 2007)。「編者が同一人物」?

>相を二島がお互いだとすると、東國輿地勝覧では海上からだとするのは矛盾です。同じ編者なんですから、より詳しく書いたと考えるのが当然です。

『世宗実録地理志』と『新增東國輿地勝覧』は同じような地誌ですが、別の書ですから書き方・内容が違うのは当然ではないでしょうか。

>二日可到も、本土でなくお互いだと考えるのですか?

No.16155 で述べたように、『新增東國輿地勝覧』欝陵島記事の「三峰岌ゲフ(山の下に業)タウ(手偏に掌)空南峯稍卑風日清明則峯頭樹木及山根沙渚歴歴可見風便則二日可到」で、本土からの距離を明記した部分は「風便則二日可到」と考えています。

>接近した海上から強く印象にのこるのは、まず断崖絶壁です。それを書かずに、樹木や渚のことを書くのは、変ですね。

欝陵島の海岸を、『西溪雑録』と『臥遊録』の「欝陵島地誌」では、「自稱壬辰之亂俘」の僧は「皆壁立萬仞」と語り、yabutarou01さんが紹介された(No.16180)『臥遊録』「蔚陵島説」では、「四面皆蒼岩鐵壁」と書いていますが、何を書くかは人それぞれによって異なるでしょう。

>私の想像は、古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島が直近にあるので、これに比定して于山島をあてたのだと思います。獨島を見て于山島だと考えた人も居る可能性はありますが、普通は見えませんので、近傍の島を比定してしまったのだと考えます。

同感です。私の言いたかったのは正に、「古代の于山島は鬱陵島のことだが、行ってみると別の島(竹嶼)が直近にあるので、これに比定して于山島をあてた」人や、「獨島を見て于山島だと考えた人も居る」ということです。そして『地理志』の「二島相去(距)- -」は後者の見解を記したものと思います。husenoyajiさん有難うございました。

  • 最終更新:2009-03-10 02:32:01

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