1714年 「欝陵之東島嶼相望接于倭境」の島は朝鮮領

  元禄竹島一件の決着から15年経過した1714年、朝鮮朝廷は半島東沿岸の防衛について議論しました。この時、江原道御史は「東沿岸は日本領に接している」と発言しました。即ち、「鬱陵島は日本領である」or「鬱陵島は公海上に存する」との認識を示したのです。


  肅補55卷1714年7月22日の項に次のとうりです。

① 江原道御史趙錫命 論嶺東海防踈虞?略曰
     江原道御史趙錫命が、嶺東の海防が疎かであると論じた。
② 詳聞浦人言 平海蔚珍 距鬱陵島最近 船路無少礙 鬱陵之東 島嶼相望
     浦人の言を詳聞すると、平海・蔚珍は鬱陵島に近く、船路に何の障害もない、
     鬱陵島の東に島嶼が相望む。
③ 接于倭境
     ここ(于=江原道)は倭境に接している。
④ 戊子壬辰 異樣帆檣 漂到 高杆境 倭船往來之頻數 可知
     1708年と1712年に、異樣帆檣が高城と杆城の境に漂着した。
     倭船の往来が頻繁であると分かる。
⑤ 朝家 雖以嶺海之限隔謂無可憂
     朝家は、嶺海が隔するから心配ないと言う。
⑥ 而安知異日生釁之必由嶺南 而不由嶺東乎? 綢繆之策 不容少緩
     後日に変乱が必ず起こるから、その対策は延ばせない。
⑦ 廟堂請依其言 飭江原道 團束軍保
     廟堂はその言によって、江原道の軍制を引き締めた。



疑問1)①の浦人とは何者か。
  浦人とは、官職名か単に漁民を指すのかは判りません。
  何れにしても、この時代、2~3年に1回、鬱陵島検察使を派遣していました。検察使の鬱陵島報告書を使用せずに、浦人言が朝議に挙げられたのは、江原道御史が鬱陵島を管轄していなかった為と考えられます。江原道に管轄されていない鬱陵島が朝鮮領ということはありえるのでしょうか。

疑問2)浦人言はどこで終了するのか。②か③か。接于倭境は、浦人言なのか、趙錫命言なのか。

疑問3)③接于倭境の于(ここ)とはどこか
  「接于倭境」が浦人言とする場合、日朝国境を浦人言により決めている事になります。又、浦人ですら知っている日朝国境を朝議にかける必要もありません。このことから、「接于倭境」を趙錫命言とすることに合理性があります。
  この朝議の目的は、江原道の海防についてです。そこで議された「于」が江原道を示すことに合理性があります。仮に、日朝国境が「鬱陵之東」にあり、それを浦人すら知っているとするならば、鬱陵島に鎮台を置き然る後に江原道の海防を論ずるべきでしょう。





  • 最終更新:2009-03-11 04:08:18

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