17369 「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料

「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料

2009/ 2/22 17:20 [ No.17369 / 17379 ] 
投稿者 :  yabutarou01  
 
 
山陰中央新報の記事です。

「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料


  竹島(韓国名・独島)をめぐり日韓両国が領有権を主張する中、戦後間もない一九四七年に韓国の調査団が、同国側が竹島の古い名前だと主張する「于山島」を鬱陵島と同一視していたことを示す史料が見つかった。二十二日の「竹島の日」を迎え、韓国側の主張の矛盾を裏付けるものとして注目を集めそうだ。史料は、島根県の竹島資料室が見つけた。米軍政下の暫定政府の要請に基づき、竹島などの領有権を固めるため、朝鮮山岳会が四七年八月に学術調査した内容を、民俗学者の同会の宋錫夏会長が翌四八年にまとめた。竹島の北西九十二キロに位置する鬱陵島について、歴史や朝鮮本土からの位置関係など島の概要を紹介している。この中に于山島そのものの表記はないが、「太宗十七年(一四一七年)」の年号や「按撫使の金麟雨が鬱陵島で大きな竹や水牛皮、綿子、検樸木などを献上した」など、一四三一年編さんの韓国の歴史書「太宗実録」で初めて登場した于山島に類似する記述を、鬱陵島のこととしている。また、于山島と関連があるとされる于山国が、歴史書「三国史記」に登場する年号「新羅智証王十三年(五一二年)」も記されている。竹島資料室の錦織希衣さんは「韓国側が調査当時、于山島を鬱陵島と認識していたとみられる」と指摘。「于山島が竹島という韓国側の主張が、成り立たないことを補強できる史料」とした。
 于山島をめぐっては、韓国在住の米国人研究家ゲーリー・ビーバーズ氏が、韓国の古地図や文献を基に、于山島は竹島ではなく、鬱陵島の北東に隣接する竹嶼(ちくしょ)を指している、とする研究成果を発表。島根県の竹島問題研究会も同様の見解を示している。




 「米軍政下の暫定政府の要請に基づき」とありますが、米軍政のアメリカ軍人の要請ではなく、暫定政府で独立準備をしていた韓国人高官が公式に調査団を送れないので民間で調査団を結成させたものであると私は記憶しています。
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Re: 「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料

2009/ 2/22 17:50 [ No.17370 / 17379 ] 
 投稿者 : yabutarou01

恐らく、この文章のことを言っているのではないかと思われます。 



浦項で 水路一百二十四海里 東チォックバダソックに 世上で低ぼかしを受けた のような 鬱陵島が 史上にナッアナギは 新羅 智証王十三年 [A.D.512]であり,至今から 一千四百三十余年 前だ. その後 高麗 太祖十三年の時に 土民 白吉 土豆 等が 方物を バッチョッウムで 正位と 正朝官職を与えた.また 毅宗十一年 [A.D.1159]に 溟州監倉 金柔立を送るよ見た 結果 村落基地 七個所と 石仏 鉄鍾 石塔 等はあるが 住民が暮すには 不便すると 報告した. その後 李朝 太宗十七年 [A.D.1417]には 按撫使 金麟雨が 鬱陵島で 大竹水牛皮綿子 検樸木 等を 献上したと言う.
これら 歴史的記録は 同島 北西便 遺跡地域で 出土する 遺物で 能ヒ 説明できる. しかし 世宗地理誌や 常識的に知られた大竹 大桃みたいなことは 只今は 影子さえなくてただ 香木が 昔のザツェを言うように 絶壁右にやっと残っているだけだ. 鬱陵島の 人煙は 数次の 無人島時代をギョックグン後 只今から 六十四年 前に 開拓民の 移住から 始作下は 現在に至ったが 現存一 当時の 移民はやっと限り人が 沙洞というところ残っている だけだ.
イネドルの 移住当時の 産物でも 木材はその後 濫伐で 因しなければならない爆利刀なくて 全島エイッヌン 寄鳥 グァックセと海の 特産 全鰒は 只今は 滅種にガッがウォ この番 調査にも 発見できなかった.
鬱陵島で また 東便で 四十八海里に行けば群れの 脚光を受けたドックソム(独島)が ある.東西 ドックソムになるよ 西チォックソムがちょっと大きくなって 高度百五十七米突であり 西島は 噴火口があるが 只今は支えてその 下部には海物が ドルナックナルナックする.両島の間には 陷沒一 残骸が残っていて この 残骸を今度 調査隊では 獅子島だと 命名した.
歴史的では 李朝 成宗三年で 十二年(1472-1481)まで 十年間 この島の 問題が 沸騰下は 朴宗元を 敬差官ウロして我が国の 逃潜者を 捜そうと韓日があり 富寧人金漢京等歯軋りして 逃潜民に 劫ウルデで※ 上陸できなくて 図形だけ グリョワッダする.所謂三峯島捜覧問題だ.現在 島民の 唯一限り 生命線的 産業は 烏賊魚 漁業だ.七·八·九月の 3ヶ月の間は 島民の巨津 全部の 男子は 夕陽マンドエなら 発動機船で 海に出てウェンバムドングアン 捕獲真書アツムイルズックが 帰浦する. この海の 恵沢が 全島民 一万五千の 生命を受け継ぐ.

      • -----------------------------------------------------------------------------

(古色蒼然限り 歴史的遺跡 鬱陵島を捜して !/宋錫夏/国際補も 3冊1号(新年号) pp.328 /国際報道連盟/国立中央図書館所長,

(韓国語) かなり後ろの方

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これは メッセージ 17369 yabutarou01 さんに対する返信です

Re: 「于山島=鬱陵島」と認識の韓国史料

2009/ 2/25 22:21 [ No.17374 / 17379 ] 
投稿者 :  chaamiey  
 
 
翻訳を改良して見ました。


<古色蒼然たる歴史的遺跡・鬱陵島を尋ねて!>

  鬱陵島・独島学術調査の時、学術調査団隊長として鬱陵島と独島を直接探査された宋錫夏先生の次の文を通じても、石島がすなわちドクソムと発音され、ドクソムが現在の独島であることを把握することができる。

               * * * * *

  浦項から水路124海里、東方海上の世の中から忘れられたような鬱陵島が歴史に現れるのは、新羅・智証王の13年(西暦512年)であり、今から1430余年前だ。その後、高麗・太祖の13年に、土民白吉、土豆等が方物を奉って来たので位階と官職を与えた。また毅宗の11年(西暦1159年)に 溟州監倉・金柔立を送り、その結果、村落基地7ヶ所と石仏、鉄鍾、石塔等はあるが住民が暮すには不便であるとの報告を得た。その後、李朝・太宗の17年(西暦1417年)には按撫使・金麟雨が鬱陵島から大竹、水牛の皮、綿子、検樸木などを献上したと言う。

  これらの歴史的記録は、同島の北西辺の遺跡地域から出土する遺物で良く説明できる。しかし、世宗地理誌や常識的に知られた大竹、大桃などは今は影さえなくて、ただ香木が昔の礼服のように絶壁にかろうじて残っているだけだ。鬱陵島の人煙は数次の無人島時代を経た後、 今から64年前の開拓民移住から始まって現在に至っているが、現存する当時の移民はわずかに一人が沙洞というところに残っているだけだ。

  彼らの移住当時の産物であった木材は、その後の乱伐によって一本もなく、全島にいるガクセ(鳥)と海の特産である全鰒は今は滅種に近く、このたびの調査でも発見できなかった。

  鬱陵島から再び東へ48海里を行けば、時の脚光を浴びたドクソム(独島)がある。東西ドクソムになっており、西側の島が少し大きく高さ157メートル強であり、 西島は噴火口があるが今は塞がっていて、その下には海水が出入りしている。両島の間には陥没した残骸が残っていて、この残骸を今回の調査隊では「獅子島」と命名した。

  歴史的には、李朝・成宗の3年から12年(1472-1481年)までの10年間、この島の問題が沸騰し、朴宗元を敬差官として我が国の逃潜者を捜そうとしたことがあり、富寧の人金漢京らが行って逃潜民を捕まえようとしたが上陸できず、地図だけ書いて帰って来たという。いわゆる三峯島捜覧問題だ。

  現在、島民の唯一の基礎的産業はイカ漁だ。7、8、9月の3ヶ月間は、島民のほとんど全部の男たちが夕陽のころになれば発動機船で海に出て夜通し捕獲し、朝早く帰港する。この海の恵沢が全島民一万五千人の生活を支えている。

(古色蒼然たる歴史的遺跡・鬱陵島を尋ねて!/宋錫夏/国際報道3巻1号(新年号) pp.328 /国際報道連盟/国立中央図書館所蔵)

             * * * * *

  この文は1947年8月16日から8月28日までの第一次鬱陵島・独島学術調査団の派遣の直後に書かれた文であり、当時でも独島は「ドクソム」と称されていたことを示唆していて、独島の語源を糾明するのに重要な意味があると言える。大韓帝国勅令第41号の石島(トルソム)はドクソムである独島であることがさらに明らかになる。


(翻訳終わり)
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これは メッセージ 17370 yabutarou01 さんに対する返信です

  • 最終更新:2009-02-27 04:20:34

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