17377 『磯竹島覚書』と「竹島一件」

『磯竹島覚書』と「竹島一件」

2009/ 2/26 7:40 [ No.17377 / 17379 ] 
投稿者 :  take_8591  
 
 
  竹島の書付によると、安龍福を逮捕し長崎に送る迄の間の、元禄6年(1693年)5月22日に、鳥取藩は、幕府に回答しています。

  それは、「竹島鮑への税金を徴収していない」「竹島渡海の詳細は不知」「伯耆守の支配所ではない」という内容です。鳥取藩としては、竹島派兵になったら嫌ですから、両家がお見え資格を持っている事を逆手に取って逃げを打ったのだと思います。
  結局、竹島一件は対馬藩が担当することになりますが、口先だけで朝鮮人を動かすのは、今も昔も大変です。対馬藩の論理は正鵠を突き、万機要覧等の朝鮮史書はその交渉経緯を残すことができない程の内容でした。
  朝鮮の言い分は、「鬱陵島の領有権を放棄していない」「空地政策を採っている」「その根拠は余地勝覧にある」というものでした。この論理は、大戦後なら通用するでしょう。しかし、17世紀の世界標準ではありません。
  一方、日本側としては、「鎖国政策を採っているので他国人と交わるのは困る」「余地勝覧根拠説は検討の余地がある」ということになり、日本も空地政策を採ることにしました。そこで、両家に預けてある「竹島渡海免許状」を取り上げ、竹島渡海を禁止することにしました。

  しかし、鳥取藩は大藩ですから、その意向を最終確認する必要がありました。元禄8年12月24日、質問を発しました。『磯竹島覚書』に次のとおりです。
  それは、「因州伯州へ付けている竹島は、いつから両国に附属する事になったのか、先祖が両国を領地とする以前のことか、その後のことなのか。」というものです。これにより、半月城さんは、この時の幕府が「鳥取藩の竹島」との認識を有していたと考えているようですが、これはありえません。既に、「伯耆守の支配所ではない」との回答を得て、元禄竹島一件処理に鳥取藩を加えていなかったのですから。又、質問と回答の期間が短すぎます。たったの一日です。

  ですから、「竹島は、因幡伯耆の附属ではない」との回答は、意外でも何でもありません。予定されていた内容です。半月城さんは、この「鳥取藩の回答が決め手になり、幕府は竹島などを朝鮮領であると認識したのである」と言われます。この事は、安龍福を釈放する前に決まっていた事なのです。この回答で決まるなら竹島一件は起こっていないのです。
  この半月城さんの論理は、二つの問題を含んでいます。一つは、元禄6年の鳥取藩回答を無視していることです。史実を無視して、我田に引水することは許されません。一つは、封建制度下において武士が領しない土地は無く、鳥取藩領でなければ朝鮮領になる。という論理は、内藤氏と半月城さん以外に理解できる人はいません。誰も理解できない論理で、自己の主張を正当化するのは許されません。

  半月城さんは、「幕府は鳥取藩の回答に松島が新たに登場したことに関心をもち、さらに松島に関する詳細な質問を追加した。」と言われます。しかし、幕府がした再質問と鳥取藩の回答は松島に限ったことではありません。如何なる史料に基づいたものか疑問に思います。少なくとも、磯竹島覚書にその根拠を求めることはできません。

  半月城さんは、鳥取藩回答書を得るまでの「幕府はこの時まで松島の存在を知らなかったのである」と言われます。しかし、隠州視聴合記に「朱印を奉じて竹島松島に渡海する」とあり、山陰地方では両家が、黒印(鳥取藩主の許可)ではなく、朱印(幕府の許可)を得て竹島松島に渡海していることが常識となっていたのです。幕臣阿部家の書状が竹島一件で検討されていなかったとしても、「松島の存在を知らなかった」ということはありえません。

  「竹島・松島を一対にして日本領外と」したというのが、半月城さん主張の基本の筈です。そうでなければ、日朝外交文書に「竹島」としか書かれていないのに、松島は朝鮮領になったとは言えないと思います。
  そこで、「磯竹島覚書」を色々検討しましたが、この年末年始にかけての幕府と鳥取藩が、「竹島」という文言を用いて「竹島+松島」を認識していないことが明らかになりました。


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返信  

これは メッセージ 17342 take_8591 にさん対する返信です

  • 最終更新:2009-02-27 04:24:20

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