a15679 『唐土歴代州郡沿革地図』の松島竹島

『唐土歴代州郡沿革地図』の松島竹島
2007/ 7/16 22:33 [ No.15679 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 

江戸時代最高の地理学者である長久保赤水は、『唐土歴代州郡沿革地図』所収「亜細亜小東洋圖」で「松島竹島」を日本領と明示しました(No.15627)。その地図が早速、関心を引き、広く知られるようになったことを嬉しく思います(No.15633)。

「亜細亜小東洋圖」は織田武雄・室賀信夫・海野一隆氏によって『日本古地図大成─世界図編』(講談社, 1975)で寛政元(1789)年の初版が紹介されています。初版図も「松シマ」「竹シマ」を含む「日本国」は際立つよう赤く彩色し、鮮明な画像が公開された神戸大学図書館の天保6 (1835)年版と全く同じです。ただし、永(永良部島)と琉球の島々が灰青色であることが異なります(タ子シマ・ヤクシマ・硫黄は赤)。上程記事に、国立国会図書館蔵の初版本では、日本領は薄茶色に塗られ、現在の竹島と鬱陵島にも薄茶色の彩色があり、と記されていますから、彩色は図によって違うかもしれません。

東洋で最初の着彩歴史地図帖である『唐土歴代州郡沿革地図』は何度も版を重ね、海野一隆氏は「明治に入ってもなお命脈を保っている」と述べました(『東洋地理学史研究日本篇』清文堂, 2005)。『國書總目録』(岩波書店, 1969)によると、これには寛政元年・同9年・文政2年・同12年・天保6年・嘉永7年・安政2年・同4年の版があります。今回、山陰中央日報で紹介された安政4(1857)年版は二宮惶軒補とされているものですが、「松島竹島」を明確に日本領として彩っていることに変りはないようです。このような地図が山陰地方の民家から発見されたことは極めて重要でしょう。

長久保光明氏は「この中国歴史地図帖(一三図)は評判がよく江戸後期に各藩の藩士教育や、私塾や家塾(藩の指示による)などの漢籍学習の必見書であった。その例に、長門国萩藩の志士吉田松陰も、松下村塾で使用(北条重直『水戸学と維新の風雲』修文館昭和七年)。- - 昭和五六年七月二六日松蔭神社参拝のときに遺品の中にあった。」と書いています(『地図学通論』暁印書館, 1992)。

松下村塾で『唐土歴代州郡沿革地図』を使っていたとは大変興味があります。吉田松陰は安政5(1858)年2月19日付の桂小五郎宛の書簡で竹島開墾論を唱えました。松蔭は後に、元禄期の交渉で竹島が朝鮮の帰属となったことを知りますが、松蔭の死後、桂小五郎・村田蔵六は、竹島を日本の属島として、「竹島開拓建言書草案」を老中久世広周宛に提出しています(岸本覚:幕末海防論と「境界」意識.『江戸の思想』9, ペリカン社, 1998)。

さらに岸本氏は、竹島開墾を計画していた坂本龍馬に、下関で竹島の情報を伝えたのは井上聞多であることを明らかにしました。龍馬は慶応3(1867)年3月6日付印藤肇宛書簡で次のように書いています。「彼竹島ハ地図を以て側算すレバ、九十里斗なるべし。先頃井上聞太、彼島ニ渡りし者ニ問しニ、百里ナリ、とおふかた同じ事ナリ。其島ニ渡る者の咄しニ楠木ニよく似てありしもの、広くハ新木在之、其外、壱里余より弐里もあらん平地ありしと也。島の流レハ十里斗なりと、」(『坂本龍馬全集』光風社出版, 1988)。

幕末維新の時期、日本海西部沿岸地方の人々は、「竹島」を日本領と信じて渡航していました。これには、「松島竹島」を隠岐と同様に彩色した弘化3(1846)年以降の『改正日本輿地路程全図』(No.14939)など、特に、二つの赤水図が重要な役割を果したかもしれません。そして、松蔭の薫陶を受けた木戸孝允や井上馨らは、極少数の旧幕臣を除く明治新政府の誰よりも、「竹島」について知悉していたことでしょう。


 『日本地誌提要』『大日本史』の松島竹島

2007/ 8/ 8 22:28 [ No.15715 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 

明治初期に書かれた日本地誌の「松島竹島」の記事について述べます。

和銅の風土記につぐ日本全土の官撰地誌とされる『日本地誌提要』は、隠岐國島嶼の項に「又西北に方リテ松島竹島ノ二島アリ。土俗相傳テ云フ。穩地郡福浦港ヨリ松島ニ至ル。海路凡六拾九里三拾五町。竹島ニ至ル。海路凡百里四町餘。朝鮮ニ至ル海路凡百三拾六里三拾町。」と記しました(No.15672)。この記事のある『日本地誌提要』「山陰道」(複刻, 臨川書店, 1982)は明治11(1878)年1月刊行となっていますが、明治7年8月刊の日本地理の教科書、南摩綱紀『内地誌略』に殆んど同じ表現があるので、隠岐國のこの項は1874年には成立していたと思われます。『内地誌略』は次で読むことができます。

『日本地誌提要』は、1873年ウイン万国博出陳の天保図・伊能図から輯製した日本地図の説明として、紅葉山文庫・旧幕府昌平坂学問所の資料から、塚本明毅の下で河田羆らが編纂したのが始まりとされています(No.12262)。塚本明毅は、長崎海軍伝習所で学び、文久元(1861)年幕府が初めて派遣した外国奉行水野忠徳を長とする小笠原巡視に、田辺太一らと共に加わり、母島とその離島の現在と殆んど変らない正確な地図を作りました。1871年西周の後任の沼津兵学校頭取から太政官地誌課長となり、1872年地誌事業の傍ら「改暦の詔書」を書き上げました。

極めて有能なテクノクラートであった塚本明毅は、日本海西部沿岸地方の人々が竹島を日本領と信じ朝鮮からの抗議も受けずに渡航しているのを見て(No.15679)、寛永20(1643)年の林羅山『本朝地理志略』の例に倣い(No.10197)、至極当然の事として、「松島竹島」を隠岐國条に配したのかもしれません(No.15278)。半月城さんは『日本地誌提要』は竹島・松島を日本領としなかったと述べましたが(No.15674)、塚本明毅には、「松島竹島」を隠岐の属島とし、日本領とする意図があったと思います(Nos.15675, 15677)。

『大日本史』(1906年完成)は隱岐國の項に「別有松島、竹島屬之、(割注:隱岐古記、隱岐紀行、○按自隠地郡福浦、至松島、海上六十九里、至竹島百里四町、韓人稱竹島曰鬱陵島、巳曰竹島、曰松島、爲我版圖、不待智者而知也、附以備考、)」と記し、「松島竹島」を明確に隠岐の属島としました。これは、半月城さんがNo.15609で述べたように、長久保赤水の認識が色濃く反映していた水戸藩の見解を踏襲したからでしょう(No.15627)。

栗田寛から『大日本史』「国郡志」の校訂を委嘱された、邨岡良弼が著した『日本地理志料』(1903, 複刻, 臨川書店, 1966)の「隠岐國」条には、『大日本史』に基づき「別有松島竹島、松島距隠地郡福浦、在六十九里三十五町、竹島在百里四町 - -」とあります。しかし、彼は「別有松島竹島」の後に「屬之(隠岐)」とは書きませんでした。

塚本明毅と交友のあった大槻修二の『日本地誌要略』(1875)は、「松島竹島」の現状を次の様に記しました。「其(隠岐)西北洋中ニ、松島竹島ノ両島アリ、共ニ朝鮮地方ニ接近スレドモ、亦居民統屬ナク、各方ノ人、時ニ來リテ、海獵ノ場トナスト云フ、」。

しかし大槻修二は、1886年の『改正日本地誌要略』では、「其西北海上ニ松嶋竹嶋ノ両嶋アリ、相隔ル殆一百里ニシテ、朝鮮ニテ蔚陵嶋ト稱ス、近來定メテ其國ノ屬嶋トナスト云フ、」と書き、朝鮮領との認識を示しました。

明治初年、「松島竹島」は統属なき地との認識が一部にありました(No.15612)。1877年3月、日本の領域を定めるため内務省は、江戸時代の文書を調べ、「竹島外一島本邦関係無之」として、太政官に伺いました。吉田松陰は桂小五郎に安政5(1858)年7月11日次の書簡を送っています「竹島論、元禄度朝鮮御引渡しの事に付き六ヶ敷くもあらんと此の地にても議し申し候。- - 竹島・大坂島・松島合せて世に是れを竹島と云ひ、二十五里に流れ居り候。」(『吉田松陰全集』9巻, 岩波書店, 1939)。参議木戸孝允は竹島と松島を版図外とするも已むなしと考えていたでしょう。


 Re: 『日本地誌提要』『大日本史』の松島竹

2007/ 8/10 21:14 [ No.15716 / 17395 ] 
投稿者 :  kana_ikeuchi  
 

>内藤さんの説は主観的な論理展開やべき論が多い。史料から読み取れる事実を重ね合わせていくと、その主張は破綻する。


いえてる。 でも、人の数ほど自己主張があっても不思議じゃないわ。


 竹島・松島に関する正院地誌課の結論

2007/ 8/12 23:25 [ No.15720 / 17395 ] 
投稿者 :  ban_wol_seong  
 
  半月城です。

  ararenotomoさん、No.15715
>半月城さんは『日本地誌提要』は竹島・松島を日本領としなかったと述べましたが(No.15674)、塚本明毅には、「松島竹島」を隠岐の属島とし、日本領とする意図があったと思います(Nos.15675, 15677)。

  塚本明毅は、内務省地理局において明治初期の日本地図の製作を監修しました。もし、かれに竹島・松島を日本領にする意図があったのなら、地理局発行の『大日本國全圖』(1890)や『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方などに竹島・松島を載せたのではないでしょうか。
  竹島・松島を本土外と記述した『日本地誌提要』「隠岐」条の編纂は太政官 正院地誌課(1871-74)によりおこなわれましたが、その時、すでに竹島・松島を日本領にするのが無理だという調査結果が出ていたと思われます。

  島根県「竹島問題研究会」の最終報告書に「幕府関係者が編修した『磯竹島事略』には・・・」と記されていますが、幕府が竹島(欝陵島)を放棄した事情を記した『磯竹島事略』(磯竹嶋覺書)を正院地誌課は知っていたか、あるいはもしかすると自ら編纂したのではないかと思われます。
  その上で、竹島・松島を日本領とする無責任な地図に警鐘を鳴らす意味で、両島が日本の領土外であることを明確にしたのではないでしょうか。
  ともあれ、地理担当部署である地誌課による『日本地誌提要』の記述は相当なインパクトがあったようで、地理学者の田中阿歌麻呂はその影響を『地学雑誌』にこう記しました。
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  明治の初年に到り正院地誌課に於て其(竹島=独島、半月城注)の本邦の領有たることを全然非認(ママ)したるを以て、其の後の出版にかかる地圖は多く其の所在を示さざるが如し、明治八年 文部省出版 宮本三平氏の日本帝国全圖には之れを載すれども、帝国の領土外に置き塗色せず、又 我海軍水路部の朝鮮水路誌には、リアンコールト岩と題し、リアンコールト號の發見 其他外国人の測量紀事を載するのみなり(注1)。
       --------------------

  地理局が地図で竹島・松島を扱わなくなったため、逆に竹島・松島の島名混乱を招いてしまったようです。竹島・松島は日本領でないとの結論なので、それもやむを得ないところです。

(注1)田中阿歌麻呂「隠岐國竹島に關する舊記」『地学雑誌』第200号,1905,P594



 Re: 竹島・松島に関する正院地誌課の結論

2007/ 9/12 22:36 [ No.15815 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
半月城さん

ご意見と新しい資料の紹介を有難うございます。

>塚本明毅は、内務省地理局において明治初期の日本地図の製作を監修しました。もし、かれに竹島・松島を日本領にする意図があったのなら、地理局発行の『大日本國全圖』(1890)や『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方などに竹島・松島を載せたのではないでしょうか。

1877年3月の太政官指令で「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とされたので、内務省地理局地誌課長として塚本明毅は、『大日本國全圖』(1880)や『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方などに竹島・松島を載せることが出来なかった、と思います。ただし、官撰地誌『日本地誌提要』は、1878年1月刊行にもかかわらず、林羅山『本朝地理志略』の書式(Nos.10197, 10287, 15278)を変えなかったことに興味をもっています。

>『日本地誌提要』「隠岐」条の編纂は太政官正院地誌課(1871-74)によりおこなわれましたが、その時、すでに竹島・松島を日本領にするのが無理だという調査結果が出ていたと思われます。

同意します。紅葉山文庫・旧幕府昌平坂学問所の資料等から、すぐに竹島・松島を日本領にするのが無理だという調査結果は出たと思います。しかし塚本明毅は、「松島竹島」を「隠岐」条に配することにより、17世紀の竹島渡海事業や、幕末明治初期の日本海西部沿岸地方の人々の竹島渡航の事跡を残そうとしたのではないかと思います(No.15679)。

>幕府が竹島(欝陵島)を放棄した事情を記した『磯竹島事略』(磯竹嶋覺書)を正院地誌課は知っていたか、あるいはもしかすると自ら編纂したのではないかと思われます。

磯竹嶋覺書は、自民党調査役大熊良一氏の『竹島史稿』(原書房, 1968)に「中邨元起校正『磯竹島覚書』(写本)明治八年」とあり、中邨(村)元起が関ったと思われます。中村元起(1820-1884)は、林復齋の塾頭を務めた高遠藩儒で廃藩後、筑摩県で松本「開智学校」創設に加わった後、太政官に出仕し歴史・地理の編纂に当った、とされています。地理局地誌課職員一覧によると、中村元起は明治6年から同10年1月まで在籍し、『日本地誌提要』「編纂姓氏」に十三等出仕中村元起とあります。『磯竹嶋覺書』は正院地誌課が自ら編纂したと思います。

内務省は、島根県提出の文書と独自調査から、「竹島外一島之儀本邦関係無之儀」と結論しました。この決定には、前島密と共に郵便創業に加わり、大久保利通に重用された地理局長杉浦譲の判断が大きかったと思います。しかし当時、太政官正院修史館(局)地誌課長であった塚本明毅は、『Carte de l'empire du Japon』や『日本地誌提要』で日本領とした島をいとも簡単に放棄したことに対し、割り切れない思いを抱いていたでしょう。

竹島外一島を版図外とした太政官指令は、政府に近い知識人さえ知らなかったようです。「松島竹島」を「居民統屬ナク」と記した(No.15715)大槻修二の弟で、国語辞書『言海』の著者大槻文彦は1878年8月、次のように書いています「今ヤ北ハ唐太千島ノ交換アリテ魯国トノ紛紜ヲ終ヘ、西ハ朝鮮ト和成テ葛藤始メテ解ケ、東南ノ小笠原島、英人既ニ其所有ノ権ヲ放棄シ、南方ノ琉球モ亦将ニ其両属ノ名ヲ処置セムトス。此時ニ当リテ此二島ノ事措テ問ハザルハ亦遺憾トスベシ。其ノ後レテ人ニ制セラレシ唐太ノ如ク、其数年ノ異議ヲ起シヽ小笠原島ノ如クハ、我レ竹島松島ニ於テ望ム所ニアラズ。乃チ二島ノ事ヲ記シテ世ノ志士ノ説ヲ起サムトス。」『洋々社談』(高田宏『言葉の海へ』新潮社, 1978)。

内務省は、一部とはいえ日本領或は所属不明との認識があった「竹島松島」を、独自の判断で放棄したので、異論が出るのを恐れたのかもしれません。


 『Carte de l'empire du Japon』

2007/ 9/12 22:54 [ No.15816 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo  
 
Tanaka_Kunitakaさん

1873年ウイン万国博で展示された『Carte de l'empire du Japon』の掲示を有難うございます(No.15801)。この地図は、明治新政府が初めて作成した日本全図で、諸外国に対し日本領土の範囲を示した、極めて重要なものと思います。

『Carte de l'empire du Japon』は、日本の領域を実線で表し、朝鮮半島や沿海州の海岸は点線で示しています。北方地域では、SAGALINは全島、ChisimaはUrup・Yetorofu・Kunashiri・I. Shiukotanの4島だけが実線で描かれ、「樺太千島交換条約」以前の日本政府の領土認識がよく分ります。

「松島竹島」に関して、幕府は「松島竹島」を日本領とは考えていませんでした(No.15627)。高橋景保の『日本邊界略圖』(1809)や伊能忠敬の地図を元にした『官板実測日本地圖』(1867)に「松島竹島」は記載されていません(No.15697)。しかし『Carte de l'empire du Japon』では、明白な朝鮮領の済州島は載せませんでしたが、Matsou I.とTake I.は記され、明治新政府は日本領と考えていたように見えます。

『Carte de l'empire du Japon』に松島と竹島を載せたのは、旧幕府の見解と訣別し、日本海西部沿岸地方の人々が行い伝えてきた「竹島渡海」を重視したからでしょう(No.15679)。この地図の説明として、和銅の風土記につぐ官撰地誌『日本地誌提要』は書かれました(No.15715)。塚本明毅は、日本領とした松島と竹島を隠岐國条に配し、「土俗相傳テ云フ」として隠岐からの距離を示し、日本人渡航の事跡を記録しました。

『日本地誌提要』の隠岐から松島と竹島への距離、「六拾九里三拾五町」と「百里四町」は現在からみると過大で、この数字を何からとったかは不明ですが、江戸時代には島嶼間の距離は一般に大きく見積もられていたようです(No.12406)。

1876年10月5日内務省地理寮は地籍編纂のため島根県へ竹島を照会しました。島根県では竹島に関連する文書を添え、10月16日「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」を内務省に提出しました。内務省は、竹島関連文書を調べ、1877年3月「竹島外一島之儀本邦関係無之儀」と結論し、太政官の承認を得ました。

1875年9月、地誌事業は「博ク古今ノ沿革ヲ攻拠」する必要があるとして、塚本明毅は自ら建言して地誌課を地理寮から太政官正院修史局に移しました(石田龍次郎『日本における近代地理学の成立』大明堂, 1984)。地誌課は1877年12月再び内務省地理局に戻されましたが、1877年3月の「竹島外一島本邦関係無之」とした内務省の決定には、竹島事情に最も詳しい地誌課は殆んど関与しなかったと思われます。『日本地誌提要』で「松島竹島」を隠岐の属島とした塚本明毅は、この決定に不満を感じていたでしょう。

太政官指令があるので、塚本明毅は、『大日本府縣管轄圖』(1879)や『大日本國全圖』(1880)、及び『大日本府縣分轄圖』(1881)の山陰地方に、竹島・松島を載せることは出来ませんでした(No.15815)。しかし、彼は『大日本府縣分轄圖』内の『大日本全國略圖』に竹島・松島を載せました。この地図は、Tanaka_Kunitakaさんの指摘どおり(No.15802)、『Carte de l'empire du Japon』と似ており、それを元に作られたものでしょう。

『大日本全國略圖』の竹島・松島の位置は、ahirutousagi2さん(Nos.2811, 2888, 3153, 9693, 9798, 12407, 12431, 12491, 14830, 15634)とhenchin_pokoider01さん(Nos.2810, 3165, 9786, 14857, 15636, 15657)が繰り返し何度も主張したように、アルゴノート島・ダジュレー島であるように見えます。

幕府海軍で測量と地図作成では小野友五郎と並び称された塚本明毅は、『大日本全國略圖』の竹島と松島の位置が、存在しないと分っているアルゴノート島と鬱陵島であるダジュレー島に相当することを承知していたでしょう。塚本明毅は、竹島を烏有のアルゴノート島、松島を「竹島一件」で放棄した鬱陵島の位置に比定することにより、十分な議論もなく竹島と松島を放棄した太政官指令に、ささやかな抗議の意味を込めたのかもしれません。


 樋畑雪湖:竹島は江原道に屬し朝鮮の領分

2008/ 7/22 22:53 [ No.16955 / 17395 ] 
投稿者 :  ararenotomo1  
 
近世交通史の研究者樋畑雪湖は、1930年『歴史地理』(55巻, p.590-591)に「日本海に於ける竹島の日鮮関係に就いて」と題する論考を寄せ、「竹島(リアンコルド島)は欝陵島と共に今は朝鮮の江原道に屬してゐて、朝鮮の領分として日本海中最東部に屬してゐる。」と記し、さらに「(竹島は)寧ろ日本の領土に近く漁業等の関係からして我版圖に屬すべきを適當と思ふのである。」と述べました。

この記述から樋畑雪湖は、1905年2月22日の島根縣告示第四十號「北緯三十七度九分三十秒東經百三十一度五十五分隠岐島ヲ距ル西北八十五浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト稱シ自今本縣所屬島司ノ所管ト定メラル」を全く知らなかったものと見えます。

松代藩士の子である樋畑雪湖(1858-1943)は、1875年同郷の川上冬崖を頼り、陸軍参謀本部図生となりました。川上冬崖(1827-1881)は、1871年伊能忠敬の図を利用した市販近代地図の第1号とされる、色彩豊かな美しい『大日本地圖』を作りました(渡辺一郎『伊能忠敬の地図をよむ』河出書房新社, 2000)。冬崖は当時、地図課長木村信卿少佐(1840-1906)の下で陸軍参謀局から1877年に発行された『大日本全圖』などの編纂に携っていたと思われます。なお、これら二つの地図に「松島竹島」は描かれていません。

その後樋畑雪湖は、1878年長野県庁図生から1885年逓信省に入り、官製絵葉書と郵便切手デザインの中心となり、逓信博物館を創設しました。雪湖はまた、長野時代に知遇を得た志賀重昂の『日本風景論』(初版1894年)の挿絵を描き「ベストセラー化の隠れた功労者」とされています(猪瀬直樹『ミカドの肖像』小学館, 1986)。

「美しい日本」を讃える多くの地理書を著した志賀重昂(1863-1927)は、辺境の島々にも関心が高く、南鳥島・鳥島・硫黄諸島・大東諸島・尖閣諸島にしばしば言及しています(例えば『世界山水圖説』1912)。特に南鳥島については、1898年の東京府知事告示による領有化に、大きな役割を果しました。しかし志賀重昂は、島根縣隠岐の項に「松島竹島」を載せませんでした(例えば『地理講話』早稲田大学出版部, 1906)。

一方、山崎直方・佐藤傳藏編『大日本地誌』(博文館, 1907)は、「隠岐國」条で竹島を正確に記述しました。「隠岐群島の西北海上約八十五浬を距て、一孤島あり、竹島といふ。從來何れの國に屬するや不明なりしが明治三十八年二月二日(ママ)以降公然日本の版圖に入り、島根縣所屬隠岐島司の所管となれり。・・島は一つの狹き水道(長さ約三百三十米幅凡そ百米、深さ凡そ五尋)を距てヽ東西に相對峙せる二個の主島と其の附近に碁布散列せる數個の小岩礁とより成る。・・」

ただし、佐藤傳藏『日本新地理』(博文館, 1898)の「隠岐」条には「松島竹島」は記されていません。

東大地質学科出身の地理学者山崎直方(1870-1929)と佐藤傳藏(1870-1928)は「島根縣告示」を素直に受け入れました。他方、地理に造詣の深い樋畑雪湖が、竹島を欝陵島と共に江原道に属させたのもまた、極めて自然な発想と思われます(Nos.14988, 15005)。

  • 最終更新:2009-03-09 21:03:14

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